又吉直樹・ヨシタケシンスケ「その本は」1037冊目

面白い。あの又吉直樹とあのヨシタケシンスケがコラボしてる。二人とも、じわっ、クスシ、しみじみ、とくる可笑しみのある作家で、それにあの、なんともいとおしいイラストがついて、とても立派に装丁されている。中身は「その本は」で始まる、本をめぐるユニークな発想集で、なかには切ない短編小説も。星新一ショートショート、のようなどんでん返しはあまりないけど、ほっこりとしつつ、知的好奇心を刺激してくれる本。

この本のタイトルは「その本」じゃなくて「その本は」なんだ。この違いはけっこう大きい。「その本は」のほうが中身に正直だけど、「その本」のほうがちょっと謎めいている。

どうやってこの本を作るに至ったか(どの編集者あるいは著者の一人あるいは二人がどんな風に思いついたか)、二人でどうやって作ったか、作ってみた感想、などがすごく知りたいけど、そういうのは一切載ってません。ネットにインタビューとかありそうだけど、今回はそういうのも見ないままにしておこう。

いろんな読書のこころみって、面白いよね。

 

「須賀敦子の手紙」1036冊目

これは、最近読み漁っている須賀敦子関連書籍のうち、彼女が親しい友人夫婦に宛てて書いた個人的な手紙を集めたもの。エアメールの表書き、裏面の筆跡も含めて、なにもかもさらしています。

名前くらいしか知らない人の自宅を、いきなり覗き見しているような気分。ご本人が知ったら、顔を真っ赤にして怒って、この手紙を公開させた「おすまさん」(手紙の宛先)に長々とお説教をしたんじゃないだろうか。読んだ私も同罪かもしれません。

この本の中の須賀敦子は、才気豊かで感受性が強く、ちょっと短気でたぐいまれな知性を持つ女性です。きっと目のキラキラした、早口の、すごく魅力的な女性だったんだろう。話がべらぼうに面白くて、愛嬌があって、料理が上手で、一緒にいると最高に素敵な気分になれる女性。「おすまさん」は、写真もないけど、きっと自然が好きで優しくて温かい、のんびりとした”山ガール”のような感じの人じゃないかなぁ。

この手紙の山から見えてくる須賀敦子は、こんな下書きもない万年筆書きの手紙でも、感覚がするどくて表現も独特で、わかりやすく親しみやすい。むしろ、一般庶民はこのままの文章を読みたい、いやもっと言うと、この人がテレビでこんな話をしてくれたら国民的な人気者になったかもしれない、とさえ思います。そんな人があえて、出版されたエッセイを見ると、抑制に抑制を重ねた、完成度の高い文章です。まるで、おてんば少女が厳しい父親に正座させられているような文章。父親なきあとも、彼女の中には厳格な父親が住み続けていたのかな。

今って、おてんば少女がそのまま言いたいことをブログやYouTubeで垂れ流し続けている時代だと思う。(私もそうだ、ほとんど推敲はおろか誤字脱字チェックもしてない)才能のある人の文章を読むのは、話し言葉のようなものでも、抑制しきったストイックな形でも、どちらも好きです。でも世の中が自由に寄りすぎていることのバランスをとるように、抑制の美しさも再評価されたりしないのかな。それともエントロピーは増大し続けるので、文章表現はダイバーシティ(広い意味で)をさらに広げていくしかないのかな。私自身は、完成度の高い文章をもっと読みたいと今思ってますけどね・・・。

大竹昭子「須賀敦子の旅路」1035冊目

やっとここまできた。

「1万円選書」に当たってこの本が送られてきたのが2022年の1月。2年も寝かせてしまったのは、軌跡を訪ね歩くと言われても、そもそも須賀敦子を知らない。知らない人の軌跡を訪ねる本を読むなんて、ヒントなしに暗号を解こうとするようで、手探りでも進めないような居心地の悪いもの。

いったい誰なんだ。と調べてみて、最初に手にしたのが「須賀敦子の本棚」というシリーズのダンテ「神曲」。ハードルが高いうえ、須賀敦子の翻訳でもない。ますます混乱して、もうちょっと調べてみたら、エッセイでいくつも受賞した人だとわかったので、初心者向けの「須賀敦子エッセンス」というエッセイ集1・2を読んで、やっと何者で、どういうものを書いた人なのかわかってきました。じっくりと読み応えのある文章で、エッセイなのに読者を本の世界に連れていってしまうようなすごい読後感もあります。

文体はやわらかいのにどこか男みたいな硬質なところもあり、どんな人が書いたのかが想像できず、いつまでも気になってしまう。・・・という状態で、やっとこの本を読み終えたところです。

彼女の軌跡をたどりたいと思った人、知りたいと思った人たちの気持ちが、今ならすごくよくわかる。あんな文章を書く人の素顔はどんな人なのか。

若い頃は、どんな人も節制努力すれば、何不自由なく長寿を全うすることができると思ってたけど、今は、天から与えられるものは偏っていて、何らかの不幸や不運を避けられない人もいると思っています。若い頃と違って、不幸を背負ったままでも生きていけるし、それもまた一つの悪くない人生だと思える。須賀敦子は大きな空洞のようなものを抱えて強く生きた人だと思う。書いたものの完成度の高さとは対照的にも思える、実際の人間関係のバランスの悪さも見えてきて、ふしぎと、ますます自分の心が強くなるような気がします。人間ってすごいな、ほんとに。

60歳を目前にした私のプロフィールを見て、この、知らない人に関する知らない人による紀行本を選んでくれた「一万円選書」選者の思いにため息が出ます。この年齢にしてまだ自分のやるべきことが固まらない私でも、今まで失敗ばかりしてきた私でも、生きてるかぎり自分の道を探し続けていてもいいんだ。

私も、会うこともない誰かや、通りすがるだけの誰かに、こんな励ましのできる人になりたいと思います。ただただ感謝。

 

須賀敦子・文、酒井駒子・絵「こうちゃん」1034冊目

須賀敦子が書いた童話がある、それを絵本にしたものが日本で出版されている、というので調べて読んでみました。絵は私の大好きな酒井駒子です。

「こうちゃん」。「こうちゃん」って誰だろう。座敷わらしだけど室内より屋外によく出没する。神出鬼没で、人の子とも思えない。感受性が強くてときどき号泣する。でも、そこにこうちゃんがいると思うだけで、なんだか安心する、救われる。そんな不可思議な存在です。

須賀敦子にお子さんはいなかったと思う。読んだ感じ、これは持つことのなかった彼女の子どもというより、いたかもしれない彼女のちいさい兄弟のような感じ。幼くてあどけなくて、まだ現実と夢の区別がついていないような。

で、読んでるとなぜかちょっと切ないような気持ちになる。これを書いていた頃はまだペッピーノと結婚していなくて、多分すてきな恋をしていた頃のはずで、まだ彼女は大事な家族を亡くす痛みをリアルには経験してなかったはずなのに。

冒頭で「鉄のくさりをひきずって」いたはずのこうちゃんは、後の場面ではそれほどの荷物を持っていないように見えます。同じ人なのか、それとも子どもたちの総称なのか?

なんにしろ、須賀敦子の文章は(酒井駒子の絵も)読み終わったあとに不安が残る。その不安はでも少しあかるい、いい気持ちなんだ。人の作ったものがどう人の心に作用するかは、私にはとても説明できない・・・。

 

Max二宮「ふわっと速読で英語脳が目覚める!」1033冊目

この著者は、10年前から自分の経験や研究から独自の「英語速読」のセミナーを立ち上げていて、私もこの「英語速読」講座をちょっとだけ体験してみたことがあります。私の場合、英語はもちろん日本語の本を読むのもゆっくりな方で、以前はたくさん本を読む人間ではなかったんだけど、社会人大学院に通ったときにドSの教授が毎週膨大な課題を出すのに食いついていったおかげで、気が付いたら本を読むのが早くなっていました。だから、それが英文でも可能だということが感覚的に理解できます。

英語速読セミナー、始まる前と終わったあとで、実際、早く読めるようになったんですよ。ちょっとびっくりした。でも、体験しただけで続けなかったので、今でも英文は視線を文頭から文末まで動かしながら出ないと読めない・・・。日本語なら、目を行のまんなかあたりに置いたままどんどん読めるので、スピードは天と地ほど違います。まあ、この先英文を大量に読む機会はあまりなさそうだし、話すほうはいい加減だけど話せてるから、英語に関しては速読をこれから学ぶつもりはないです。

問題は、やっと本腰をあげて勉強しているスペイン語だ・・・。メカニズムは言語にかかわらず同じなので、私の場合はこの本を読んで、そのとおりに素材を集めて、スペイン語の本を読むべきなのだ。「はじめて学ぶ人」段階をようやく抜けて、「初級」の真ん中あたりへ進みたいところ。まだ語彙がぜんぜん足りないし、時制は理解できてない。最重要動詞の活用もまだデタラメ。この状態なら、スペイン語のこども用の本でも読んでみるべきかな・・・。

速読のポイントの一つは、大した意味のない「つなぎ」の言葉がどの言語もけっこう多いってことじゃないかな。そう考えると、一番無駄が少なそうな中国語はどうなんだろう。中国語にも「つなぎ」があるんだろうか。速読は可能なんだろうか。

日本語を学ぶ外国人のおとなには、日本語のどういう文章を読んでもらうのがいいんだろうか。童話よりは「やさしい日本語ニュース」のほうがいい気がするな・・・語彙は難しそうだけど。

語学学習は仕事上も生活上もずっと私には関係があるものなので、速読の取り入れ方はずっとチェックしていこうと思います。

 

湯川豊 編「須賀敦子エッセンス2 本、そして美しいもの」1032冊目

「エッセンス1」を読んだあと、ずっと頭のなかでこの人のことを考えていた。いったいどんな人だったんだろう。周囲の人たちから愛される可愛らしい女性だったと思うけど、自分を高くも低くも見ない、他者のことを書いてもあまり感情を出さない。独力でヨーロッパへ飛んで数カ所に定住し、家族まで持ったことの孤独を、声高に叫ぶこともない。

もしかしたらこの人は、ものすごく不幸な人だったのかもしれない、一生、誰にも見せられない絶望を隠し続けた人なのかもしれない、と思ったところで、この本を読んでみた。

こっちのほうが「エッセンス1」よりもっと、孤独や絶望が漂ってくる気がする。エッセイを書き始めたのはイタリアから日本に戻って何十年も後だけど、昨日のことみたいに、映像を見ながら書いてるみたいに詳細なのは、その頃の思い出にとらわれたまま、抜け出せずにその後も生き続けたからかもしれない。

須賀敦子に心を奪われて、彼女の軌跡をたどった人の本を読んだのが最初なんだけど、彼女自身がサバという、書店主でもあった詩人の軌跡をたどる章がある。急ぎの旅で手がかりをつかめるかどうか怪しい、本で読んだイメージに裏切られるかもしれない、不安な気持ちが読んでるわたしたちにも伝染する。誰かが誰かの本を読んで、書いた人の歩いた道をなぞる。その人の道をまた誰かがなぞる。でも次になぞる人はもう誰もいないかもしれない。憧れる気持ちは続いても、憧れられる気持ちは続きにくい。100年後の誰かに読まれようと思って、みんな本を書くわけでもない。たいがいの本が黄色くなって破れて捨てられて焼かれる、書いた人の遺体と同じように。

歳をとってから書き始めた人だからかもしれない、諦念というより、書くこと、読まれることに何も期待していない堅さがある。この人が20代に書いたものとか、何も残ってないんだろうか?意外なほど無邪気で希望にあふれたこの人の文章などあったら読んでみたい気もする。

いくら感想を書いても書ききれない気がする、ずっと何か特定できないものが残る。不思議な書き手だな、ほんとに・・・。

 

井上真偽「聖女の毒杯 ‐ その可能性はすでに考えた」1031冊目

ギラッギラにラメを漉き込んだ紙が表紙に使われていて、文字が読めん(笑)!

新しい若い作家さん、かと思って読んだら(私から見れば十分若くて新しいけど)2016年発行、ということはもう8年も前。著者は年齢性別不明とのことだけど、毒婦の表現がとてもリアルで細かいので女性かなぁと想像します。井上しんぎと書いてまぎ、か。荒野さんとか真偽さんとか、名前じゃないような名前の井上さんが何人もいるなぁ。

それはいいとして、中身ですが、とても面白かったです。したたかなのか間抜けなのかよくわからない大女フーリン、名探偵マイナス1みたいな青髪の探偵、コナンを卑屈にしたような子どもキャラ、等々、人物がどれも新鮮。トリックはともかく動機に感情がないし探偵の人間洞察が表層的なあたり、書いたのはアガサ・クリスティみたいな人を知り尽くした老女ではなくかなり若い人だなと思うけど、彼らがスクリーン上でガチャガチャと騒ぎを繰り広げるところを見てみたいなと思います。(とっくに映像化されてるらしい)