萩尾望都「バルバラ異界」683~685冊目

<ネタバレあり>

図書館で4か月順番を待ったけど、まったく順番が進まないのでとうとう買いました。複雑かつ広がりのある、SFでありながら少女まんがの美とロマンを備えた名作でした。 

去年マリエンバートで はもちろんのこと、惑星ソラリスと、ミッドサマーと思い出す映画がたくさんあって、言ってしまえば「盛り盛り」だ。それから、結末に向けてすごく大きな動き、天地がひっくり返るようなことが起こるんだけど、それについては科学的っぽい説明が少なくて、気持ちの上で持っていかれる感じの構成になってる。それが少女まんが的なのかもしれない。

この作品に関していえば、「自分たちが誰かの夢なのかもしれない」という、自我や存在意義をつかさどる大前提のゆらぎが、崩れてそのまま大団円に向かうところから、読者自身もグラグラしてくるんだけど、それでいいのだ、と受け入れるしかない。

でも、このモヤっと感が余韻でもあって、自分自身が半ば”青羽”の世界に取り込まれたような状態のままってことなのかも…。

じっくり、浸れました。

バルバラ異界 (1) (小学館文庫 はA 41)

バルバラ異界 (1) (小学館文庫 はA 41)

  • 作者:萩尾 望都
  • 発売日: 2011/12/15
  • メディア: 文庫
 
バルバラ異界 (2) (小学館文庫 はA 42)

バルバラ異界 (2) (小学館文庫 はA 42)

  • 作者:萩尾 望都
  • 発売日: 2011/12/15
  • メディア: 文庫
 
バルバラ異界 (3) (小学館文庫 はA 43)

バルバラ異界 (3) (小学館文庫 はA 43)

  • 作者:萩尾 望都
  • 発売日: 2012/01/14
  • メディア: 文庫
 

 

ロビー・ロバートソン「自伝 ザ・バンドの青春」682冊目

この本をもとにしたドキュメンタリー映画をやっと見たので、本の方も読みたくなってしまった。上下二段で515ページという分厚い本だけど、ロビー・ロバートソンの生い立ちからザ・バンド解散直前の「ラスト・ワルツ」まで、彼と一緒に一生を生きなおすかのような臨場感のある、冒険譚といってもいいくらいの面白さで、どんどん読み進んでしまいました。

「ロバートソン」という名字は北欧のものだけど、彼の出自はネイティブ・アメリカンの母と”トロントの裏社会を牛耳ってきた”ユダヤ人の父。白人といっても”そんなに白くもない”と彼は言っています。(ロバートソンは母の結婚相手の姓で、ロビーと血のつながりはない)

ユダヤの父系の親戚がみんなずば抜けた記憶力の持ち主で(祖母は禁酒法時代に、客の連絡先を全部暗記して密造酒を売りさばいていたとのこと)、ロビーも信じられないほど対バンしたミュージシャンたち、出会った女性たち、あらゆることをよく覚えているので、だから創作のように微に入り細を穿つ描写ができるんだ。

彼は文中で元ビートルズの故ブライアン・ジョーンズを「おそろしく顔が広い」と言っているけど、ロビー自身、あらゆる人と出会ってそれを楽しみ、分析してプロデュースする能力に長けていることがわかります。ザ・バンドって無垢なツアーバンドだと思ってたけど、ロビーというプロデューサーが交じってたから、あそこまで行けたんだな。ロビーに限らず、リーヴォン、リック、リチャード、ガースやロニー・ホーキンス、ボブ・ディランといった兄弟みたいなミュージシャンたちがどんな人だったのかという興味も、この本で満足しました。ロビーは頭脳と才能を持って人を動かしてきたけど、バンド仲間は彼の掌で踊らされている感じもあったかも。彼はすごくがんばったし成果も大きかったけど、感謝されることが少ないし、逆に恨みも買う。…なんかわかるような気がします。ちょっと孤独な人生だな。彼は愛する人なのに、うまくやればやるほど、愛されなくなってしまう。プロデューサーとして頭一つ上から他のメンバーは見下ろされているような気分だったのかもしれない。

ジミー・ジョーンズと名乗っていた頃のジミヘンと親しくなったり、ニューヨークではアンディ・ウォーホールと一緒にサルバトール・ダリのスイートを訪ねたり。 ザ・バンドってほんと謙虚で目立たないバンドってイメージだったけど、むしろ派手とも言えるこの交友関係。ラスト・ワルツのあれほどのゲスト陣も、彼の常日頃の外交のたまものか。(Wikipediaに載ってたリーヴォンの言葉「ロビーが自分の仲間を連れてきた、自分たちはほとんど知らないのに)

改めて「Music from the Big Pink」と「The Band」を聴いてみたら、メトロノームとはだいぶズレたリズム、不必要なフェイドアウト、あんまりうまくないドラム(普段ピアノを弾いてるリチャードによるもの)とかに気づいた。でもこれがいいんだ。きれいに録ったらマジックが消えてしまう。

ザ・バンドってなんか特別にロマンチックな、旅芸人的な魅力のあるバンドだったので、ついつい深く知りたくなってしまう。こんなバンドってもう出てこないだろうな。秘密を守り続けるバンドと、プライベートもバレバレのバンドしか今はもういないから…。

 

ホルヘ・ルイス・ボルヘス「伝奇集」681冊目

ベルトリッチ監督「暗殺のオペラ」を見たんですよ。で、原作も読んでみたくなって借りてみたわけ。この本でボルヘスは、書かれなかった本のあらすじだけを語るっていう体裁で、いろんな物語を語ります。その手法は、ズルいくらい読みたい心をそそる、読む人の気持ちを知り尽くした読書者ボルヘス。小説の中で一番面白いのは帯で、映画で一番面白いのは予告編。(かもしれない。)しかし、そそるだけで答えをくれない。読者をけむに巻くのがボルヘスのやり口。これ、最初にやったもの勝ちだなぁ。

最初の「八岐の園」の2番目の物語「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」でもうつまづいた。事典の同じ版の違うコピーの一つだけ、ページ数が多くてその余分なページに「ウクバール」の項目があると「私」が語る。…次の章では私はどこかへ行って突然ハーバート・アッシュという男のことが三人称で語られる。どうやら1章で言っていたウクバールは架空の国で、2章で言っているトレーンというのは架空の天体。相互の関係はない。2章の後半にやっと「私」が戻ってきて、トレーンについて書かれた書物とハーバード某との関係や、トレーンの言語文化(デタラメな)について語る。…「オルビス・テルティウス」は?→附章で、「トレーン第一百科事典」の改訂版の名前だということが明かされる。…まことしやかにデタラメに架空の星や国の文法などについて語るあたり、筒井康隆みたい。真剣にその文法の組成を理解しようとしてはダメだ。読めば読むほどバカバカしくなる、くらいでちょうどいい。

続く「アル・ムターシムを求めて」では、これまた架空の、ムスリムの家に生まれたのに神を信じない青年(名前は出てこない)が冒険の果てに神のような存在、アル・ムターシムを探す、という物語のあらすじを語る。しかも、そのあらすじを小説として語る上で伏線をはりめぐらさなければならないとか、ズルい、実にズルい。今ならボリウッドで本当に作られていそうな荒唐無稽っぷり。

その次の「「ドン・キホーテ」の著者、ピエール・メナール」も、建付けが実にわかりにくい。”直喩”で言うなら、「現代(ボルヘスの当時)の作家が現代の文筆界の人間として「ドン・キホーテ」を書いたとしたら?」なんだけど、それを”隠喩”で、「ピエール・メナールはドン・キホーテを書いたのである」と言い切っちゃうから。リライトでも現代語訳でもなく、現代の人間が当時のスペイン語で書くから、メナール版のほうは(文章は一語一句違わないのに)「擬古体」とされる。なんてひねくれた文才なんだ。こんな屈折した純粋な文学的努力が正しく評価されるなんて、アルゼンチンってところはなんて文化レベルが高いんだ。
「円環の廃墟」では、いまならバーチャル・リアリティとか架空のキャラである"息子"自分の想像によって生み出す男について書いています。最初は心臓、次は…とひとつひとつの部位を丹念に思い浮かべて。息子自身が、自分だけが他人の想像の存在であることに気づかないよう心配りをするんだけど、結局のところ息子だけでなく、男自身も他人の想像によるものだと気付くという結末。いまなら「メタ構造」と一言で言いきれてしまう短編だけど、1941年にこれを書いたのって、すごい想像力。この人の作品って、全部理解しようと思わないで、するする読んでみたほうがすごく面白い。

「バビロンのくじ」では、売価が0円のくじが全国民に発行され、当たりの極みは高額の現金、外れの極みは死刑…と、「運命は誰がどうやって決めるか」をイメージしたのかな、と思われる短編。

改めて読みなおした「裏切り者と英雄のテーマ」(「暗殺のオペラ」の原作)は、舞台がアイルランドになってるけど、それはヴェネチアでも南米でもポーランドでも良かったとまずボルヘスは書いてる。独立紛争があった国ならどこでもよかったということ。英雄と思われている者が実は裏切り者であった、という設定は、それだけで作品がいくつでも書けそう。(このあと6篇続くけど、集中力切れてきた)

あらすじと、その小説の書かれ方がわかっていれば、読む必要はない…という感覚は、いままでイヤというほど小説を読みまくった人にしか持てない感覚だと思う。イヤというほど映画を見まくっていて、あらすじとクライマックスだけ見られればいいや、とたまに思ったりしている今の私には、(当人の才覚は別として)その気持ちが少しはわかる。Wikipediaボルヘスを見てみると、この本が書かれた10年後にはほとんど視力を失っていたらしい。すでにこの頃視力が弱ってきていたとすれば、こまごまと執筆することが辛くなっていたのも、「あらすじを語る」ことに終始した理由の一つと考えていいんじゃないかな。

ガルシア・マルケスノーベル文学賞を取ってボルヘスが取らなかった理由について、私ごときに思い当たることがあるとすれば、ボルヘスは尖っているし難解だから(すっごく面白いのに、面白さがわかるまでに要する時間と努力が半端ない)。ガルシア・マルケスの私が読んだ数冊は、物語になっているのでするする読めるのに、読み終わると異世界に連れて行かれたような不思議な感動が残る。この「不思議な感動」こそが芸術のダイゴ味ですよね?

映画も本も、本当に気に入ったものを何度も何度も繰り返し味わうほうが、面白いと思うものも思わないものもとにかく数をこなすより、濃い体験ができるのかもな。ただ、片っ端から乱読、乱鑑賞しないと、運命の作品には出会えないのがツライところ。

この本は挑戦するハードルがものすごく高いけど、繰り返し、繰り返し読んでいるうちに、頭の中でストーリーがどんどん広がって、ベルトリッチみたいに表現してみたくなる本かもしれない。読む人がどういう仕掛けで刺激されるか、という観点で読書してみるのって面白い。

(すっかり長くなってしまった!)

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 
 

 

伊藤計劃「虐殺器官」680冊目

2007年に書かれた著者の初長編小説で、日本の2000年代を代表すると言われている作品。遅ればせながらテッド・チャンやケン・リュウを読み始めた日本人としては、押さえておくべき作品。

アメリカ軍に所属する暗殺者である「ぼく」が語る形になっているSFでありミステリーで、語り口の内向的なところや、知性の高さ、そのくせ世間ずれしていないところから、日本のすぐれたアニメ作品を思い起こします。違う点もたくさんあるけど、まず思い出したのは「スカイ・クロラ」。でもこの主人公はもっと深く内省的で、かつ、最初から最後まで物語を一人称で語りとおした彼には強い意志がびしっと一本通っていることを感じさせます。

ムサビを出て映像制作に携わっていたというこの著者の教養には驚かされます。博学をひけらかすような小説はだいたい「鼻持ちならない」感じがしてイヤだけど、この小説にはちっともそんな感じを受けないのが不思議。たぶん著者に、人によく思われようという気持ちがあんまりないからじゃないかな。小説を語るうえで必要だと思うことを、友だちに語るように書き続けている。これを書いてる時点で大病に悩まされていて、自分の残り時間を意識していたから、書くべきことを書かなければならないという強い意識があったんじゃないだろうか。その勢いにのまれて、夢中になって読み進めてしまいます。

主人公が考え続けているのは「意思を持って決断する死と、その決断の責任」だ。善悪ではなくて、自分のなかの倫理。

モンティ・パイソンや洋画の話が次々に出てくるのは、英訳して読まれることを意識してたのか。映像制作をやってた人だから、本当は自分で監督して映画化したかったんじゃないかな。こんなものをたったの10日で書き上げたってことは、ずっと温めていた構想をタイプするのにかかった時間ってことか。

ある意味、心の中の妄想をそのまま文章に落としたような本で、その妄想を持つ本人の魅力で読ませてる感じ。すごい内面世界を持ってる人って、その世界を持ってそのままあの世に行っちゃうんだろうか。何年後かに転生してまた書いてくれないかな、とか思ってしまうのでした。

ほかのも読んでみよう。アニメ化もされてるみたいなので、そっちも見てみなきゃ。

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

虐殺器官 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

村井章介「世界史のなかの戦国日本」679冊目

高野秀行の読書本で取り上げられてたのを読んでみました。歴史がまるでダメで、大河ドラマとか見ても全然理解できない私にはとても難しい本だったけど、面白かった。蝦夷地や琉球の支配、ヨーロッパからの武器の伝来、倭寇や秀吉の朝鮮出兵といった出来事を、生々しい当時の記録をかき集めてリアルに解説していて、人々の姿が浮かび上がってくるようです。

鹿児島県と沖縄県に属する島々に行ってみると、沖永良部までは居酒屋にオリオンビールがないけど、与論にはオリオンとアサヒの両方を置いてある店もある。元々の琉球王国の領土の範囲、日本に戻された時期の違いなど、なかなかセンシティブな問題があるので、あまり無邪気な気持ちで島々を訪ねるのは無神経なのかもしれない、などと考えるようになりました。この本を読んで何か明確にわかるというものでもなく、境界線は島の人々にとってはいつの時代も船で行き来できたわけなので、気にしすぎるのもおかしいのかもしれません。

それよりこの本を読んで個人的にショックだったのは、島津藩朝鮮出兵の際に明と朝鮮の軍や一般の人々の首を数えてそれに応じて兵たちに銀を与えたため、無為にその数が膨大になったという話…。(それが定説というわけではなく、著者の調査によるものです)私の祖先は島津家に仕えた侍と考えられていて、朝鮮出兵の際の武勇で秀吉様から名字をいただいた、という碑が村の外れに立っているのを見たことがある。誰とも争わず、差別せず、競争があれば100%譲ることを旨としてやってきた、わりとガマン強い自分だけど、それは祖先の犯した罪を原罪として魂のどこかに持っていて償いのために無意識にやってることなんだろうか。

まあ、家だとか血筋だとか遺伝だとか、そんなことを言い出すと、ナチスドイツが支配していたドイツの人々は子孫末裔まで悪人だと思わなきゃいけないような、むしろ道義上おかしなことになってしまうのだけど。

100%悪いことに携わらず清廉潔白なまま生物として代々生きてきた人もいないのかもしれない。これからの人生も、調子に乗らず、わきまえて心してやっていこうと思うのであります…。

世界史のなかの戦国日本 (ちくま学芸文庫)

世界史のなかの戦国日本 (ちくま学芸文庫)

  • 作者:村井 章介
  • 発売日: 2012/04/01
  • メディア: 文庫
 

 

工藤吉生「世界で一番すばらしい俺」678冊目

Twitterでどこかからこの著者の言葉が流れてきてちょっと驚愕&ドン引きして、気になってフォローして、歌集を読んでみなければと思って借りてきました。

著者の想像どおり「あとがき」から読む。どういう人なのか知りたい(下世話な好奇心)。

読むのがちょっと怖かったけど、読んでるうちにだんだん安心してくる。人って意外と普遍なんだなという気がする。痛いときは痛い。短歌って、散文詩よりエッセイより生々しくその人の心そのもの、という感じがする。

思い出したのは、最近読んだ松下竜一の若い頃の短歌だなぁ。彼が貧しい豆腐屋だった頃、取引先の10歳も年下のお嬢さんに恋をして、彼女が高校を卒業して結婚するまで、ずっと送り続けた恋の歌とか。読んでいるだけでその人になったような気持ちになる。

だからこの歌集も、読んでいると出口のない考えや感情が胸の中に湧いてきて苦しくなる。それから、自己批判をしがちな私は、自分(本当は短歌を書いたのは別人だけど)がこうなったのは、結局のところ自己肯定感が持てないからかな、とか、そのくせ人を上から見下すようなところがあるし、とか、プライドが高すぎて自己認識が理想から遠すぎて…とか、考え込んで読み休む。自分に甘く人に厳しい性格だったら、生きるのはもっと楽なんだろうか、とか。

自分も、自分の愛も、わりとどうでもいいことだと思えるようになるまではずっと苦しむんだろうな。そう思えるようになれて良かったけど、もっと若いうちにそういう境地にたどり着く方法もあったんだろうか。宗教かな。その場合、物心ついてから一度はそれと向き合うことが避けられないと思うけど。「恥」という意識の強さとか。自分に対する興味の強さとか。でもこの人は17歳のときから三十代後半までの時間を生きてきているし、私もだ。なんかそれで十分。 

世界で一番すばらしい俺

世界で一番すばらしい俺

  • 作者:工藤吉生
  • 発売日: 2020/07/20
  • メディア: 単行本
 

 

乾き亭げそ太郎「我が師・志村けん」677冊目

これは、20年にわたって志村けんの付き人兼運転手~弟子として身近に見てきた芸人の書いた回想記。日本じゅうの人たちが、志村けんのことをもっと知りたかったと思っている今、すごく求められていた本だと思います。

ものすごくストイックで、芸のために自分の楽しみなんて考えることもないような人生だったのかな。新聞を読み映画を見て、常に周囲に気を配る。ドリフターズの中で最初からお笑いを目指したのは彼だけ(もともとはバンドだから)なので、心構えが最初から違うんだろうな。舞台でお客さんの厳しい反応に接して、それに自分もこたえる、という形でどんどん研ぎ澄まされてきた芸はチャップリンとかのボードヴィルのスターみたい。言葉がなくても圧倒的な体の動きで、小さい子からおじいさんおばあさんまで、どこの国の人でも、みんな笑ってしまう。

下ネタも多かったし、昔は(テレビの規制が今ほど厳しくないうちは)裸の女性もたくさん出て来たから、成功して好きなことやってる、やらしいおじさんなのかなと思ったこともあったけど、それだけでずっとここまでやってこられる訳ないのだ。

しみじみ、しんみり…。