ミニマリストTakeru「月10万円でより豊かに暮らすミニマリスト整理術」712冊目

会社を辞めてから「月x万円で暮らす」というテーマの本を何冊も読んだけど、これは中でもとてもポジティブでエネルギッシュ、未来に向かって大きな希望を持つ若者の著書です。(老後資金の乏しい人向けの本も多い)

シリーズ2作目で1作目を読んでないけど、この本では”ほぼ何も持たずに暮らす”ためのガジェットについて具体的にアドバイスしていて役に立ちます。。最低限のもの以外はすべて処分したうえで、普段頼るモノにはちゃんとお金をかけろと、至極真っ当な。

以前、父が実家で読み終えた文庫本を段ボール3箱も送ってもらったとき、家が本屋になったみたいで最高にうれしかった。それが日々の元気になってたこともあったけど(その後、半分くらい読んでから古書店に売ったような記憶)、からっぽの部屋にいないと新しいことは始まらない、というのも、まったくもって真理です。

去年長い時間かけて、思い切って不要なものを片っ端から処分したら、やっと今後の仕事の目安がついてきた、ということもあります。

ものはたとえ買わなくても、もらったりしてどうしても増えがち。日頃つねに「貯めない」「処分する」というイメージを持ち続けることも大事ですね。

 

村上春樹「一人称単数」711冊目

<ネタバレあります>

英語(いや他のヨーロッパ言語でもいいか)の翻訳をする人しか思いつかなさそうなタイトルだな。

この短編集のなかでは「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」が好きだったな。「謝肉祭」でも音楽愛が書かれているけど、最初からなんとなく不穏な空気がある。「ウィズ・ザ・ビートルズ」の少し暗くて切ない感じは、この著者の長編でも感じるもので、その暗い切なさは”届かない一方的な愛”にあるのかなという気がする。彼に愛されなかった美少女は、ほかの人からも(夫とか)特別愛される特徴がなかったのかもしれないし、自分が愛するものを主人公の男のほかに見つけられなかったのかもしれない。こういうとき、自分が「愛してたしきれいにしてたけど愛されなかった女性」と重ねて読んでしまうんだな…。

この人の作品には「美しく太った女」とか「今までで会った中で最も醜い女」というように、女性を容姿で判断する表現が出てくるし、それは主人公がその女性を相手に性行為に及べるかどうかという話にも通じる。(わりと幅は広くて、どうしてもダメな場合だけ特筆される感じ)女性の私からしてみると、異性と出会ったときに何でいちいち自分の性欲の対象かどうかなんて聞かされなきゃならないんだろう、そこが肝なのか?と感じてしまう。その後の話の筋に必要とも思われない頻度で主人公は出会った女性たちと行為に及ぶんだけど。「謝肉祭」の不穏さのことをいうと、主人公(この著者の作品のなかでも特に本人っぽい)の出会う醜い女性の、容姿以外の完璧さとのアンバランスが、主人公はそれに惹かれるというのだけど、読む人はそこまで気にしながらどういうふうに惹かれるのか共感できず、ずーっと不安なまま最後まで読むことになります。

村上春樹の作品には、美しい女性が付き合っている悪(と言い切れるほどの男性)からむしばまれるようなストーリーがよく出てくるくらいで、彼自身、「システム」と呼んだりする「絶対悪」を憎む気持ちが強いのに、それにふらふらと引き寄せられているのも、本当は彼自身ってことなんだろうか?ほっとけよそんな怪しい人たち、距離さえ保ってれば死にはしないよ、とか思ったりするんだけど。

「一人称単数」は、美醜は別として、わりとよくある(と自分で思っている。そしてときどき人に「会ったことありましたっけ?」と言われたり人違いされる)容貌の人でないとなかなか書けない作品だと思う。自分の知りうる世界を超えたパラレルワールドだし、突然来る脅威だ。普段と違う服装をしたら違う自分になってしまうんじゃないか?という小さな恐怖を増幅したらこんな小説ができる。村上春樹はメジャー中のメジャーな作家だけど、この主人公が店を出てから見る世界は「アール・ブリュット」の絵画みたいだ。彼や彼の作品の中の人物たちは、ちょっとした異常や異次元をいつも引き寄せる。

私はこの人の作品を好んでほとんど全部読んでいながら、ノーベル文学賞は違うだろう、受賞者の作品に私が感じる「神の視点」がない、といつも思ってるけど、論理の帝王みたいな人たちだけでなく、アール・ブリュットの神髄のような、草間彌生のような作家として村上春樹をとらえてその対象とすることは可能だろうか?

わからないものをわからないまま戸惑いの対象として書き続けることにも高い普遍性を見出すべきなのか、絵画と文学の評価基準は違うのか。

そんなことを考えたりしながら、読み続けていこうと思っています。

 

岡田英夫「日本語教育能力検定試験に合格するための基礎知識」710冊目

日本語教師の資格を取ろうかと思って、いろんな教材を読みまくったりしています。「テキスト」と称する本を読めば、試験には無駄な知識も含めて包括的に理解できるように必要な知識を体系的に書いてあるんだろうと思って、そういう本を買って通読してみたんだけど、信じられないくらい暗記偏重なんだ、これが。たとえばある教授法について書くときに、それを提唱した人の名前や教授法の名称が、カタカナで一度出てくるだけ。名字のスペルもフルネームも書かれていないし、その人の著書が巻末に参考文献として書かれているわけでもない。高校までの教科書ってこうだったかなー、と思い出してしまう。大学から上だと、もっとよく知りたい人のための情報が載ってないのは片手落ちとされると思うんだけどなぁ。

暗記すべき「特質」が列挙してあるだけで、実際その授業ってどんな風に行われてたんだろう、ということを調べるのがまた苦労する。新しいものならYouTubeで探せば見つかったりするけど、古いものは提唱者の著書はおろか、その手法についてきちんと書いた本すら見つからない。こんなの勉強って言えるんだろうか?だったら最初からQ&A形式の暗記アプリでもやったほうがマシなんじゃないか。

…という私の違和感をやさしくほぐしてくれるのが、この本でした、という話がしたかったんです。なぜならこの本は実際に長年日本語教育に携わってきた人が、やってみた教授法、移民政策の流れ、とかを実体験として解説してくれているからです。「基礎知識」というくらいでこれはテキストではないので、上に私が書いたような詳細に触れてるわけじゃないのですが、「やってみた実感」が書かれていて、初めて生きた人の話が聴けたような感覚になります。それくらい、テキストってのは死んだ言葉を並べたものになっちゃってるんだなぁと感じます。

得意分野だとは思ってないけど、この先私が海外と関係をもちつつ、ちゃんと人と関わりながら、何かの役にたっていく、という目標のために選んだことなので、まっさらな気持ちで1つ1つ身につけていかなければ。そのためには、漫然と講座を受講するんじゃなく、「試験」「教授法」「実践」など、都度都度目標をたてて、クリアしていきたいもんです。

 

信田さよ子「加害者は、変われるか?」709冊目

加害者の多くが、自分は被害者だと思ってるとある日気付いた。といっても、深刻な家庭内のDVの話じゃなくて、職場のいやがらせの話だけど。(普遍的なことかもしれないけどね)

表題の論点がとことん語られる本かと思ったら、もう少し全般的なわかりやすい読み物でした。で、加害者が変われるかどうかは、「加害者プログラムに参加するか」つまり本人に改善の意思があるかどうか、努力をするかどうか、にかかっているというのが結論だったと思います。参加率はどれくらいなんだろう。変わった、とカウンセラーが実感できるケースはどれくらいあるんだろう。

基本的には人間は変わらなくて、変わる場合も自分ががんばって働きかけたことの影響とは限らず、なにか思いもよらない拍子に変わるものだと思ってます。そのくらい、他の人への期待値は下げておきたい。

それでも加害者を変えることができるのか?をすごく知りたかったのです。著者はあくまでも被害者のカウンセラーという立場なので、場合によっては加害者とは縁を切って終わりということも多いはず。加害者側専門の心理学者が書いたものとかがあれば、それも読んでみたい気がしますね。結局のところ、犯罪は被害者が引き起こすものではなくて、加害者の中で起こって、そこから対象者を選定するものだ、っていう気がするから。間違ってるかもしれないけど。

矯正プログラムとか考えると「時計じかけのオレンジ」みたいなやつになっちゃいそうだけど、まだあまり知られてないアプローチがあるのかもしれません。。。

 

村田喜代子「縦横無尽の文章レッスン」708冊目

この本のパート1ともいえる「名文を書かない文章講座」はだいぶ前に買って持っている。村田喜代子は文章の達人のなかでも、子どものように感じて大人のように考える、感性と技術の両方がすごい人だと私は思っているので、この人の文章講座は読む価値が高い!

山陰の私立大学では、直接講義が受けられるんだ。いいなぁ。移住して科目履修したい。その講義は、子どもの作文や、学生に書かせたもの、古今東西の名文や「迷文」をサンプルとして、論理的なつながりやユニークさを受講生たちに感じ取らせるという方法を取っているようです。この作家がこんなに”縦横無尽”に読書をしてきた人だとは、全然知らなかったし意外でした。感性のままに書いて、感性のままに推敲する人だと思ってた。そういう書き方をするプロの、才能のある作家って、実際にはいないのかな。

授業で取り上げた作品のなかで、ねずみがハトに憧れる話、すごく村田喜代子っぽいと思いました。この人の作品には、地方に住むとくに個性的でもない普通の人が、とんでもないイマジネーションを膨らませて、外の世界へ羽ばたいてしまう作品がいくつもあるから。

長年憧れてきた作家って、もし会ったり講義を聞いたりすることがあったらイメージと違ったりするのかな。怒られてがっかりしたりするのかな。こんな推敲ゼロの日記なんて見られたら死にたくなりそうだ。

やっぱり静かに、愛読するだけにしときます。 

 

柴田元幸・高橋源一郎「小説の読み方、書き方、訳し方」707冊目

何でも読んで何でも書く高橋源一郎と、何でも読んで訳す柴田元幸が、表題について自由に語り合った本。私の読んだことのない本や、聞いたこともない作家の話が多くて、いいとも悪いともなんとも言えないのですが、高橋氏が絶賛する柴田氏の訳書、ブコウスキーの「パルプ」をたまたま少し前に読んで(感想)いたので、そこを手掛かりに面白く読めました。パルプの自由さと、翻訳の素晴らしさを私も書いてましたね。

それと逆に、カズオ・イシグロが好きじゃないと書いてるのも面白いです。ブコウスキーとイシグロを比較する人もいないだろうけど、実は二人ともすごくストイックで知性派の文章の達人だと私は思います。イシグロはストーリーテラーに徹して神の視点で物語るから、玄人から見ると可愛くないのかなー?(なんという低い視点だ私は)

小説は嘘を書くことだ、みたいなことを二人で言い合っている中で綿矢りさを「初めて”~のようだ”という直喩を使うように自然に使っているから驚きがある」と書いてた。彼らは宇佐美りんを読んだらもっと驚くのかな。彼女たちの世代は、小説なんて嘘くさい、嘘を書くのが小説だ、というのを読んで育ってきた一方、生活のために身を粉にして働かない世代だと思う。ブラックな仕事をしてキツキツで生活するくらいなら、退屈に耐える、という風に見える。たくさんある時間のなかで、知らないことを武器に自分の中から出てくるものを書ける彼女たちの余裕は、この著者たちから見ればうらやましいようなまぶしいような感じなんじゃないかなーと思う。

著者二人が勧める小説のリストはメモったけど、それよりブコウスキーの他の作品が読みたくなったな…。

 

地球の歩き方「世界の魅力的な奇岩と巨石139選」706冊目

これは感想を書くような本なのか?

違うかもしれないけど、面白かったです。この1年半の映画と本だけの私からはもう思い出せないほど、その前の数年間は休みのたびに旅行に出かけてました。ひたすら出費を抑えて、何度でも行く、どこへでも行く。若い頃は都市に行ってその町の人々や生活に交じるのが楽しかったけど、だんだんと、人のいない土地に一人で出かけて「地球ってすげぇ」って自然にひたるようになりました。その中で、私はわりと砂とか石とか岩とか好きだということに気づき。といっても、この本で取り上げられている139の奇岩のうち、私が訪れたのはわずかで、アメリカのグランド・サークルの4つ、アイスランド1つ、オーストラリア1つ、といってもオーストラリアの「スリー・シスターズ」は濃霧でまったく見えず、観光案内所の大きいパネルの前で写真を撮って帰ったなぁ…だから合計わずか5か所ですね。いまは旅行欲を抑えてなるべく自分の気持ちを違う方向に向けるようにつとめているので、だから多分読む本の量が増えています。元々、私が好きなのは「探検」であって対象にうるさいわけではない。もし腰に紐がついていたとしても、半径500mの大冒険を心から楽しめるだろうと思う。だから今は本を読む。

また旅行ができる日が来たら…まず国内から。そしてアジアの近場へ。いつか行きたい南米は、数年先になるだろうな。

だいぶ前から、国内の「柱状節理」を巡ろうと思って東尋坊へ行く予定を立ててるけど、フライトはもう何度延期したか。離島めぐりも計画しただけだったな。旅行関係の資格を取るのも、気分がのらない。今は、今できることをコツコツやって、夜が明けるのを待つか‥‥

ってこの本については何も書かなかったなぁ!