ブレイディみかこ「ワイルドサイドをほっつき歩け」716冊目

この人の本は本当に面白い。「地べたをはいずりまわる」とこの人は表現するけど、日本古来の意味で「地に足がついている」から面白いのだ。

ロンドンに住むことに憧れた数十年前、万が一居残ったらこんな人生があったのかもしれないといつも想像するんだけど、いいことも悪いことも起こっただろう。この歳になるまでには、そういういろいろを乗り越えて、東京にいてもロンドンにいても同じようなおばさんになってるかも。高校の後輩が主催するイベントに行ったら、お客さんがおじいさんばっかりでどうしたんだろうと思ったら、みんな彼女の同級生だった。…って経験を最近したので、ロンドンで素敵だなぁと当時思った男性たちの老けっぷりも想像がつきます。

といっても国によって政治も文化も違う。NHSの改悪は見てて本当に辛くなる。ケン・ローチの世界だ。日本で私は毎月きゅうきゅう言いながら、信じられないくらい高い健康保険料を払ってるけど、それでもきっと健康保険があってよかったのだ。

その後ブレグジットはどうなったんだろう。コロナがなければ去年か今年、多分ロンドンやリバプールに行ってたはずだった。いろいろダメでもやっぱり好きな英国にまた行きたいな…。

 

筒井康隆「ジャックポット」715冊目

断筆を解いたあとけっこう書いてたんですね。これは最新刊。これはSFカテゴリーじゃないな。エッセイありフィクションあり、フィクションのほうはボルヘスみたいに自作の小説を「1分にまとめました」っぽく書いている感じ。読む方も楽だし書く方も楽。まどろっこしさを楽しむのは若い人だけで良いのかも…。

戌年ってことは私の亡父と同い年だ。この老人の前頭葉の知的活動の活発さ。好き嫌いはあるだろうけど、彼の言葉遊びが私にはとても楽しい。もとネタを知っていた方が楽しめるので、昭和を知る人、サブカルチャーに興味を持ち続けた人でないと、「なにこのたわごと」としか見えないかもしれない。

収録されている短編のひとつ「コロキタイマイ」の中に、アラン・ロブ・グリエについて触れた箇所がある。私の好きな「去年マリエンバートで」の監督はアラン・レネ、と思ったら脚本がロブグリエだった。たまたま先週VODで「快楽の漸進的横滑り」という珍妙なタイトルの映画を見たんだけど、そっちはロブグリエが監督している。なるほど「マリエンバート」も「横滑り」も夢見るような、美を中心にしたリアリティの薄い作品だ。 筒井康隆がこういう作品を好んで見てきたっていうのは、彼らのロマンがアバンギャルドに見えるからだろうか?

「ニューシネマ「バブルの塔」」は小説かも。末尾に列挙された、彼が道連れにしたい作家の実名を見ると、私が好きな人も嫌いな人もいて、お互い嫌い合ってるだろうなーと思う人たちも入ってるけど、私は佐藤正午の名前があって嬉しい。

この短編集、あまりにも語呂が良くてつい朗読してしまう(私だけかも)。口に出して読むと気持ちいいのだ(私だけかも)。

表題の「ジャックポット」はコロナ禍をいつもの調子で語呂合わせした短編だけど、ジャックポットというのは実は別の人の作品のタイトルだった。さっそく、ハインラインの「大当たりの年(これが邦題)」が収録された「時の門」を手配してしまった。

筒井康隆の口(筆か)の悪さはお約束だ。誰に対しても憎しみはないけど皮肉は痛烈。いわゆる不適切な言葉を主に使う。…お約束ならいいんじゃないか。教科書に載せず、分別のある大人だけが読めば。そういう場を残しておくほうが健全な社会って気がする。

「想像もしなかったような別世界へ連れて行ってくれる」という小説の楽しみはないけど、面白かったです。

 

岸政彦「ビニール傘」714冊目

私の好きな本がこんなところにあった。

人はそれなりにがんばっていても、何かのきっかけでずるっと社会から滑り落ちてしまう。他の人たちをはねのけて、しがみつく人もいるけど、身体や心が弱くなってしまうとがんばることもできなくなって、漂いつづける人もいる。

この本は漂うほうの人たちを優しく思い出すような中編2つでできています。読む人は理解とか共感とか、何かを要求されることはなく、ただ、そうだよね、って思って読めばいい。押しつけがましいのが苦手な人向け。

「ビニール傘」って安っちくてコンビニでも100円ショップでも売ってるものがタイトルなのがいいです。

文章に焦りがないのは、書いている人は当事者じゃなくて傍観者だからかもしれない。他人にするように優しい、自分自身にならこんなに優しくできない。無縁仏の骨を拾うような本、だと思いました。

優しくされたいから、ほかの小説も読んでみます。

 

伊藤和夫「英文法どっちがどっち」713冊目

英語チェックの仕事を少し手伝ってるので、必要に迫られて購入。

品詞っていっても、SとVとOくらいならわかるけど、形容詞と動名詞と助動詞と副詞と前置詞と…ってなってくると、asとかtoとか、特にフレーズになってる語句の一部(such asのasとかさ)に使われてる単語の品詞とか、そこまで細かく考えたことがないのでかなり混乱してきています。

この本では「形容詞と名詞」「副詞と形容詞」など、間違いやすいポイントを24パターン、多数の例文つきで解説しています。けっこう最初のほうのページでも、どっち?と迷って誤答してしまう…こりゃダメだ。つまり買って良かった。少しずつしか読み進められないけど、がんばって読んでみます。

1993年に一竹書房というところから出た本を「復刊ドットコム」が復刊したもの。それだけの価値はありそうな本です。

 

ミニマリストTakeru「月10万円でより豊かに暮らすミニマリスト整理術」712冊目

会社を辞めてから「月x万円で暮らす」というテーマの本を何冊も読んだけど、これは中でもとてもポジティブでエネルギッシュ、未来に向かって大きな希望を持つ若者の著書です。(老後資金の乏しい人向けの本も多い)

シリーズ2作目で1作目を読んでないけど、この本では”ほぼ何も持たずに暮らす”ためのガジェットについて具体的にアドバイスしていて役に立ちます。。最低限のもの以外はすべて処分したうえで、普段頼るモノにはちゃんとお金をかけろと、至極真っ当な。

以前、父が実家で読み終えた文庫本を段ボール3箱も送ってもらったとき、家が本屋になったみたいで最高にうれしかった。それが日々の元気になってたこともあったけど(その後、半分くらい読んでから古書店に売ったような記憶)、からっぽの部屋にいないと新しいことは始まらない、というのも、まったくもって真理です。

去年長い時間かけて、思い切って不要なものを片っ端から処分したら、やっと今後の仕事の目安がついてきた、ということもあります。

ものはたとえ買わなくても、もらったりしてどうしても増えがち。日頃つねに「貯めない」「処分する」というイメージを持ち続けることも大事ですね。

 

村上春樹「一人称単数」711冊目

<ネタバレあります>

英語(いや他のヨーロッパ言語でもいいか)の翻訳をする人しか思いつかなさそうなタイトルだな。

この短編集のなかでは「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」が好きだったな。「謝肉祭」でも音楽愛が書かれているけど、最初からなんとなく不穏な空気がある。「ウィズ・ザ・ビートルズ」の少し暗くて切ない感じは、この著者の長編でも感じるもので、その暗い切なさは”届かない一方的な愛”にあるのかなという気がする。彼に愛されなかった美少女は、ほかの人からも(夫とか)特別愛される特徴がなかったのかもしれないし、自分が愛するものを主人公の男のほかに見つけられなかったのかもしれない。こういうとき、自分が「愛してたしきれいにしてたけど愛されなかった女性」と重ねて読んでしまうんだな…。

この人の作品には「美しく太った女」とか「今までで会った中で最も醜い女」というように、女性を容姿で判断する表現が出てくるし、それは主人公がその女性を相手に性行為に及べるかどうかという話にも通じる。(わりと幅は広くて、どうしてもダメな場合だけ特筆される感じ)女性の私からしてみると、異性と出会ったときに何でいちいち自分の性欲の対象かどうかなんて聞かされなきゃならないんだろう、そこが肝なのか?と感じてしまう。その後の話の筋に必要とも思われない頻度で主人公は出会った女性たちと行為に及ぶんだけど。「謝肉祭」の不穏さのことをいうと、主人公(この著者の作品のなかでも特に本人っぽい)の出会う醜い女性の、容姿以外の完璧さとのアンバランスが、主人公はそれに惹かれるというのだけど、読む人はそこまで気にしながらどういうふうに惹かれるのか共感できず、ずーっと不安なまま最後まで読むことになります。

村上春樹の作品には、美しい女性が付き合っている悪(と言い切れるほどの男性)からむしばまれるようなストーリーがよく出てくるくらいで、彼自身、「システム」と呼んだりする「絶対悪」を憎む気持ちが強いのに、それにふらふらと引き寄せられているのも、本当は彼自身ってことなんだろうか?ほっとけよそんな怪しい人たち、距離さえ保ってれば死にはしないよ、とか思ったりするんだけど。

「一人称単数」は、美醜は別として、わりとよくある(と自分で思っている。そしてときどき人に「会ったことありましたっけ?」と言われたり人違いされる)容貌の人でないとなかなか書けない作品だと思う。自分の知りうる世界を超えたパラレルワールドだし、突然来る脅威だ。普段と違う服装をしたら違う自分になってしまうんじゃないか?という小さな恐怖を増幅したらこんな小説ができる。村上春樹はメジャー中のメジャーな作家だけど、この主人公が店を出てから見る世界は「アール・ブリュット」の絵画みたいだ。彼や彼の作品の中の人物たちは、ちょっとした異常や異次元をいつも引き寄せる。

私はこの人の作品を好んでほとんど全部読んでいながら、ノーベル文学賞は違うだろう、受賞者の作品に私が感じる「神の視点」がない、といつも思ってるけど、論理の帝王みたいな人たちだけでなく、アール・ブリュットの神髄のような、草間彌生のような作家として村上春樹をとらえてその対象とすることは可能だろうか?

わからないものをわからないまま戸惑いの対象として書き続けることにも高い普遍性を見出すべきなのか、絵画と文学の評価基準は違うのか。

そんなことを考えたりしながら、読み続けていこうと思っています。

 

岡田英夫「日本語教育能力検定試験に合格するための基礎知識」710冊目

日本語教師の資格を取ろうかと思って、いろんな教材を読みまくったりしています。「テキスト」と称する本を読めば、試験には無駄な知識も含めて包括的に理解できるように必要な知識を体系的に書いてあるんだろうと思って、そういう本を買って通読してみたんだけど、信じられないくらい暗記偏重なんだ、これが。たとえばある教授法について書くときに、それを提唱した人の名前や教授法の名称が、カタカナで一度出てくるだけ。名字のスペルもフルネームも書かれていないし、その人の著書が巻末に参考文献として書かれているわけでもない。高校までの教科書ってこうだったかなー、と思い出してしまう。大学から上だと、もっとよく知りたい人のための情報が載ってないのは片手落ちとされると思うんだけどなぁ。

暗記すべき「特質」が列挙してあるだけで、実際その授業ってどんな風に行われてたんだろう、ということを調べるのがまた苦労する。新しいものならYouTubeで探せば見つかったりするけど、古いものは提唱者の著書はおろか、その手法についてきちんと書いた本すら見つからない。こんなの勉強って言えるんだろうか?だったら最初からQ&A形式の暗記アプリでもやったほうがマシなんじゃないか。

…という私の違和感をやさしくほぐしてくれるのが、この本でした、という話がしたかったんです。なぜならこの本は実際に長年日本語教育に携わってきた人が、やってみた教授法、移民政策の流れ、とかを実体験として解説してくれているからです。「基礎知識」というくらいでこれはテキストではないので、上に私が書いたような詳細に触れてるわけじゃないのですが、「やってみた実感」が書かれていて、初めて生きた人の話が聴けたような感覚になります。それくらい、テキストってのは死んだ言葉を並べたものになっちゃってるんだなぁと感じます。

得意分野だとは思ってないけど、この先私が海外と関係をもちつつ、ちゃんと人と関わりながら、何かの役にたっていく、という目標のために選んだことなので、まっさらな気持ちで1つ1つ身につけていかなければ。そのためには、漫然と講座を受講するんじゃなく、「試験」「教授法」「実践」など、都度都度目標をたてて、クリアしていきたいもんです。