岸政彦「図書室」723冊目

この人の小説は好きすぎる。

「図書室」の「私」は私だ。大した思い出はないけど、好きじゃない人と結婚したりしないで、50歳になっても自活できてる。新しく何も起こらないから、昔のことをよく思い出す。思い出すことは、どれもまぶしいように思われて、なんだか笑ってしまう。

家族を持たなかった分、何かもっと困ってる人を助けられたんじゃないか、もう少し何かできたんじゃないか、と、考えてもしょうがないことを考えて歯ぎしりばかりしてるけど、こういうのを読むと(あるいは他の人の話を聞くと)今ここにいて、いやなことをせず、時々美味しいものを食べたり、面白い本を読んだりしていることに足りていればいいんじゃないか、と思う。

自伝的エッセイと思われる「給水塔」のほうに、万博公園にあった児童図書館の話が出ている。著者が大人になってから訪れたその図書館に、かつて寂しい女の子と男の子が通っていて、一世一代の大冒険をしたかもしれない…と想像して「図書館」を書いたのかな。

相変わらずいろんなことがうまくやれず、何事も長続きせず、怒ったり嫌気がさしたりしながら暮らしてるけど、天気のいい日に電車に乗って遠出したりできればそれでいい。私にも、思い出すだけでポカポカと心が温かくなるような瞬間が、かつてあったのです。

図書室

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李琴峰「五つ数えれば三日月が」722冊目

彼岸花が咲く島」が面白かったので、過去の作品も読んでみます。

この本に収録された2編は、台湾から日本に留学してきた女性が日本の女性に恋をする、親密で繊細な作品。著者が自分の生活のなかで経験したり想像したことを膨らませたのかな、と感じる、若い女性の周囲数メートルくらいの狭い世界のお話です。

この人は言語感覚がすごい。日本語が、ヘタな日本語ネイティブよりずっと正確で美しい上、日本語と中国語の漢字の違いとか、いま日本語を学ぶ台湾人の言語や昔日本語を話していたけど忘れかけている台湾の老人の言語のような、”なんか変”で片付けられがちなものを、すくい上げてその違いをじっくり感じとろうとする。これほどの言語感覚をもった人はあまり見たことがないです。

私は言葉を大事にする人が好きだ。この著者も、このあと言葉の感覚をさらにふくらませて「彼岸花が咲く島」を生んだ。これからさらに広い世界に舞台が移っていくんだろうな。映画「メッセージ」の、墨を円形に吐き出すことで伝え合う言語みたいな、私には想像できない世界をどんどん作っていってほしいです。

 

サイモン・シン(青木薫・訳)「フェルマーの最終定理」721冊目

あー面白かったー!

本を読んだだけなのに、まるで自分がその世紀の証明にずっと立ち会ってきたみたいに、祝杯を上げたくなっている。ロールプレイングゲームで、アンドリュー・ワイルズと数名の最後まで協力した勇者(数学者)たちと一緒にチームを組んで、とうとうダンジョンを制圧したような。自分は足手まといにしかならなかった、犬とか狸とかのキャラだと思うけど。志村・谷山両氏を始めとして、チームに加わりながら初志を貫徹できなかった勇者たちも多数。もとより、ワイルズだって最初から隊列に加わってたわけじゃなかった。だけど、世界最大の(かどうか知らんけど)謎を残して消えたラスボス(いや悪役じゃないけど)フェルマーはこのとき完敗を期したのだ!(いやむしろ共に勝利を収めたのでは)

浮かれて不適切な例えをいつまでもしてしまうくらい、冒険活劇みたいに面白く読みました。数学者たちも恐ろしく魅力的だけど、彼らをここまで輝かせるサイモン・シンって人の筆致はすごい。流れるように自然な日本語訳にしてくれた青木薫の力も無視してはならない。

だけどこの本をもし10歳のときに読んだとしても、数学の本を開いたとたん、「やっぱ私、文系だわ…」と閉じてしまったと思います。

それでも、沼にはまった数学者たちの気持ちを少しだけ理解できた、ノンフィクション数学ダンジョンエンターテイメントの大傑作でした。とにかく面白いから読め、と誰にでもお勧めしたいです。

 

李琴峰「彼岸花が咲く島」720冊目

どこだろうこの島は、なんだこの言語は?

そういう新鮮な驚きが、読み始めてすぐにありました。地図が冒頭に載っているけど、形からわかるようなわからないような。でも、登場人物の一人、ヨナの話す言語を見てひらめいた。「これは与那国だ!中国語圏に一番近い沖縄の島だ。」昔は天気のいい日は与那国空港からも台湾島が見えたそうで、古ぼけた写真が小さい空港のどこかに貼ってあります。

ヨナの話す「ニホン語」は、シングリッシュシンガポールで日常的に話されている、中国語の混じったような英語)の語尾と同じ「ラー(了)」や「マー(嗎)」といった中国語の語尾が、沖縄ことばの最後にくっついてる。面白い。与那国のことばは消滅の危機にさらされてるというけど、本当にこんな言葉を話すんだろうか?

調べてみたら、実際の与那国方言は沖縄の言葉に近くて、特に中国語の影響はなさそう。ウミが話す、完全に漢語を排した(代わりに英単語が混じる)「ひのもとことば」も実在しないものだし、両方とも著者の作った新しい言語なんだな。

なんて面白いことを考える人なんだろう!…ちょうど私は今、日本語教師の勉強をしていて、方言やピジンクレオールの面白さを知ったところ。特に”ルー大柴語にそっくり”な小笠原クレオールの音声をネットで見つけたときは、残したい!と思ってしまいました。外国人が初めて日本語を学ぶとき、完全な日本語を身につける前に、母語の特徴が残った”中間言語”というものを用いているんですって。本当は世界中の人たちは、一人ひとり別の言語を持っているんじゃないか?言語って、なんてバリエーションの豊富な、正解のない世界なんだろう、とちょっと感動しました。

だからこの著者の言語感覚にすごく共鳴します。プロフィールを見たら、台湾生まれで日本で日本語教育学を学んだ人でした。なるほど。大人になってから別言語を本格的に学んだ人でなければ感じないであろう面白さを、形にして見せてくれました。

与那国島を使った女たちのファンタジーを、自分が発明した新言語でつづるというオリジナリティ。すごく面白く、自分では想像できなかった世界を見せてくれました。この作家のひらめきがこの先どう広がっていくのか、すごく楽しみです。

 

山田詠美「血も涙もある」719冊目

新刊を見かけたので、久しぶりに読んでみました。ドロドロの女の愛を絶妙な筆致で巧みに描いたものを期待して。

感想をいうと、全然ドロドロしてなかった。結婚している男女とその周辺の女と男の愛欲はあるんだけど、ぜんぜん迫ってこないくらい乾いてた。書いたものを読まされてるという気持ち。ことさら男を愚かに描くため、末尾に「!?」なんか多用したりしてるからかな。

この1冊だけを読んで評価を決めたくないので、最近の他の作品も読んでみようかなと思います。

 

佐藤正午/東根ユミ/オオキ「書くインタビュー4」718冊目

1~3は2017年に一気に読んだんだけど、その後は連載も読んでいたので、既視感がすごい。連載された何かをまとめて後で読むなんて経験は、大昔の月刊少女マンガ以来じゃないかなぁ。この本に関しては、全部が全部既読というわけでもないので、読んだことがあるような、ないような、と感じながら、自分の記憶力を試されているような緊張感をもって読みました。(おおげさ)

インタビュアーは2人目の東根さんの産休にともない、編集者である「オオキ」氏に途中交代。東根さんも最初の伊藤さんも、ファンのような態度で大作家に接する感じだけど、多分個人視点で普段書いてるものはもう少し楽しいんじゃないかと思ってググってみたけど情報ほぼ0。記名記事って少ないのか、それとも普段は紙媒体だけでライターをやってるのか。…検索に引っかからないのはインタビュアーを私も感想ブログのタイトルに書いてないからかも、と思い当たって、追記しました。ただ、編集者オオキ氏は謙虚にもフルネームを本のクレジットにもどこにも書いていないので「オオキ」のままです。

第4巻では連載中に佐藤正午直木賞受賞!という作家史上最大の快挙(多分これを超える賞、たとえばノーベル文学賞はないという前提で)があって大いに興奮したのを思い出します。

人って言葉の使い方も常識も、自分の世界の中では一貫しているけど、隣に住んでる人が狭い閉じた業界だったりすると、まったく違ったりする。狭い閉じた業界というのはたとえば研究者とかユーチューバーとか小説家とか。自分の小説と自分の好きな小説と新聞だけ読んでいるプロが、自分と違う感覚で言葉を使う人に感じる違和感って巨大だろうなと思います。このインタビューが連載されている「キララ」(今はWeb雑誌だけど、冊子で出ていた頃)が届くと、これ以外の記事は私にはツラくて読めなかったから。すごく広い分野の作家の文章を集めた冊子で、連載小説もいくつも載ってたのですが、若いというかなんというか、キラキラしててうるさくて、せっかく載ってるんだから読んでみようと何度挑んでも途中でギブアップしてしまいました。自分の文章表現にこれほどウルサい作家が、自分の美意識?に合わないものを書く人とやりとりするのは難しいだろうなと想像します。

インタビュアーがオオキ氏に交代してから、一気に連載が佐藤正午のいつもの世界に戻っています。そこはまるでもう佐世保競輪場。この違いは、個性を見つけてもらえなければ仕事にならないフリーのライターと、どんな個性も受け留めて、ときに育てていくのが職業である編集者との違いなんじゃないだろうか。編集者は作家の作品そのもの、書く態度やスタイルや”ビリーフ”、それ以外の作家の性質をよくよく把握したうえで、目指す作品を最後まで拗ねずに書いてもらうという重責を負った職業だ。自分より年上の手練れに向かって、ときにダメ出しをしなければないし、値付けや金銭的な交渉までしなければならない。ましてや「オオキくん」は文中で「ゲラの直しは任せた」と、手練れの直木賞作家から確認を任されるほど信頼度の高い編集者だ。そりゃ受け留め方も違うよ。

こうなってみると、ピキピキと読むほうも緊張していた以前のインタビュアーとのやりとりも貴重でした。

早く続きが読みたいな。(Webでずっと読んでるけど)ハトゲキの映画にまつわる話についても見てみたいです。

 

ロバート・A・ハインライン「時の門」717冊目

先日読んだ筒井康隆ジャックポット」が、この短編集の中の「大当たりの年(The Year of the Jackpot)」からタイトルを取ったと書いてて、気になったので乗っかってみました。

「大当たりの年」では、<以下ネタバレ>大当たりというより、いきなりバス停で服を脱ぎ始める若い女性など、奇妙で原因不明な現象が世界中で立て続けに起こった年に大災厄が訪れました。ハメルンの笛吹きみたいに、地震の前に逃げ出すネズミたちのように、人間にも災厄の前兆が現れるということなんでしょう。今の地球に起こっていることは”おかしなこと”ではなくてなにかの動物から人間に感染して広がった重篤なインフルエンザのような感染症であって不思議とか奇妙とかではないので、ちょっと煽られちゃったかなって気持ち。でも、おかげで、「夏への扉」をいつ読んだか覚えてないハインライン、久々に読んでみると、コンピューターの時代が訪れる前のSFの味わいがじわじわきます。

私がこのところ愛読している中国圏の最近のSFのほとんどが、コンピューターの進化が前提にある世界を描いていて、その世界に登場するスマホの発展形や様々なインターフェイスを持つPCには、近々登場しそうな説得力があります。でも、宇宙に関してはハインラインにもケン・リュウにも同様のひらめきを感じます。現時点でまだ到達していない星との接触や、異星人のほぼゼロからの創造は、今と70年前に書かれたものに想像力の違いを感じないのは当然かもしれません。

「時の門」なんて、タイムマシンものと言うと昔からあるけど、インターステラーみたいに時空を飛び越えた後のつじつまについて考察していてちょっと新鮮だし…この辺のことは実現できてない分、70年前も今も作家の想像力がすべてだからな。この辺は、70年前のSF映画の制作テクノロジーが追い付いてなかった感じとは違って、テキストは歳をとらない。

面白かった。読んでみてよかったです。