李琴峰「ポラリスが降り注ぐ夜」732冊目

彼岸花が咲く島」で感銘を受けて、この作家の作品を順次読み進めています。

この本は、新宿二丁目LGBTの集まる街の小さな「L」バーに集う人々のそれぞれの暮らしを、温かいまなざしで描いた短編集です。

田舎の中高生だった頃、ロンドンの地下で夜な夜な繰り広げられる派手なパーティ、鋭いセンスを持ちビューティフルな生活をする人々、とかにすごく憧れたもんでした。いい大人になった今、そういう生活はちょっと空しくも感じられて、もう羨望は感じなくなったけど、美しく個性的な女性たちが集う二丁目のバーには、昔みたいな憧れを感じるなぁ。自分のアイデンティティを太く持っていて、それを軸に生きていけるというだけで美しいと思う。傷ついても、傷ついても。

二丁目には昔、ゲイの友人に連れて行ってもらったことがあったな。90年代にはまだ女性が少なかったんじゃないかと思う。あの頃がいちばん、LGBTカルチャーの近くにいた。

「あとがき」に書いてあったように、まず「新宿歴史博物館」に行ってみようかな…。

 

ジェシカ・ブルーダー「ノマド 漂流する高齢労働者たち」731冊目

やっと読めました。映画を見てからずっと読みたかったやつ。映画では、フランシス・マクド―マンド演じる「ファーン」とデヴィッド・ストラザーン演じる「デイヴ」以外はリアルなノマドの人たちが素で出てるように見えたけど、役に近い素人が完全に”演じる”形だったんですね。素敵なスワンキーおばさんをみんなで悼む場面がすごく良かったんだけど、生きててよかった(笑)。今更ながら、クロエ・ジャオ監督の前作「ザ・ライダー」と同じ作り方だったんだなと納得です。

ファーンが家を出た理由となっていた「工場の閉鎖に伴う城下町の消滅」は、実際に起こっていたけど、それが理由で路上に出た人には著者が出会えなかったらしい。だからそこのエピソードを新しく書きおこしたみたいだけど、ファーンが月ぎめで借りていた倉庫の荷物をほとんど処分して身軽になった場面は、リンダ・メイのエピソードを参考にしてましたね。

1990年代にアメリカに仕事で移住した友人が言うには、たいした審査もなく誰も彼も家を買っている。ローンヒストリーがないと何もできないから、現金で払えるのにいちいちローンを組む。…おかしな経済だなと思ってたら、家の借金を返せない人がたくさん出て来た。規模感を見ただけで、借りる人だけの問題じゃないことがわかる。

映画ではアマゾン倉庫やキャンプ場の仕事は、本に書かれているよりずっと楽しそうだったし楽そうに見えた。そこはフィクションとして抑えたのかもしれない。だからかな、私がこれほど映画の中の世界に心酔してしまったのは…。彼女たちよりはだいぶ若いけど、とてもじゃないけどこれほどの労働は私には無理だ。精神的にではなく、肉体的に働けなくなった人たちはどうなるんだろう。キャンプサイトでときどき起こる自殺には、そんな理由の人もいるだろうか。

読み終わっていろいろ検索して感想や記事を読んだら、「日本人にはこういう開拓者精神がないから、高齢者はノマドにもなれない」って書いてあるものもありました。開拓者精神がある人もいると思うけど、社会全体を俯瞰するとその通りだと思う。今の日本では、生活保護でフルタイムでバイトするのに近い金額がもらえるのは、国民皆保険と同じくらいすごいと気づく。ちょっと不安になる。国は膨大な赤字を抱えて、立ちいかなくなる日がいつか来る。サッチャー政権がやらなければならなかったことを、やれる首相は日本にはいないかもしれない。でも日本はアメリカになることは拒否し続ける。こういう財政難を乗り切る方法ってあるのかな。あるとしたら突然数百年分の石油が出る、とかかな…でもそしたら日本がドバイになるだけかな…(政策のような難しいことを、考えてみようとしたおかげで、まとまらなくなってる)

思うに。ノマドは実はすでに日本にはたくさんいるのだ。高齢者はタダみたいな値段で売られているスキーリゾートマンションに移住し、比較的若い人たちはネットカフェを出て、改造もしてない自動車で暮らしてる。24時間営業の店の駐車場で寝て、コンビニやファーストフードでご飯を食べて、トイレを借りてる。開拓民のようなたくましさや連帯感がなくて、なんとなく自分が悪いようなカッコ悪いような気持ちで、それぞれ孤立してる。私に、壮大な自然の中で、ひとりを嚙みしめながらコーヒーをわかして飲む強さはあるだろうか。どんなときにも負けない、優しくて強い庶民でいられるだろうか。

日本の経済が破綻したら、まず生活保護とか減らされるんだろうな。将来に備えて私も、野草の見分け方とか料理の仕方とか、今のうちに調べておくか…(キノコは見分けられないらしいので、やめとく。って何の話でしたっけ)

 

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」730冊目

<映画とこの作品終盤の筋に触れています>

映画「ドライブ・マイ・カー」を見た→原作の短編集「女のいない男たち」を読んだ→なにかまだ抜けている気がして、新しめの長編を読み返してみたくなりました。結果、読んでよかった。「ドライブ・マイ・カー」の原作というか元ネタは表に現れている短編「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」、チェーホフ「ワーニャ伯父さん」だけじゃなくて、同じ短編集の「木野」という短編の妻の浮気発見の場面も使われていたし、あの映画の重要な”癒し”の場面はこの作品から来たものかもしれない気がします。

多崎つくるの高校時代の親友のひとり、エリは結婚してフィンランドに住んでいる。若い頃に自分を傷つけた事件の真相を探りながら、彼はフィンランドの彼女を訪ねる。彼女の容貌はいわゆる美人ではなくて健康的でたくましく、胸がすごく大きい。その彼女と、傷ついた過去について告白しあって二人はハグして泣きます。この場面だけ見ると、家福がみさきの雪深い故郷をはるばる訪ねて、そこでハグしてそれぞれの過去と和解する、映画「ドライブ・マイ・カー」のクライマックスと同じに見える。

こんなカタルシスの場面なんて村上春樹の作品にはないだろう、いやあったっけ?と思いながら映画を見ていたんだけど、読み直してみたのがこの作品で当たりでした。濱口監督ほんとすごいな、多分村上作品全部読んでいて、すごくよく、丁寧に熟成させてブレンドして映画を作ったんだな。一つの作品をさらっと見ただけで、安易に、わかったような批評をすることの薄っぺらさを自分で思い知った気がします。

そして、「好き」だと思わないし、読み終わると筋を忘れてしまうのに、出ると読まずにいられない、読みだすと読み終わるまで止まらない、という村上春樹作品について、少しずつ、少しずつ、本質に近づいていけてるのかなという、この感覚がたまらないですね。

(今は、村上春樹は「神の視点」をもった作家ではなくて、ムンクみたいに心の闇を描き続ける天才、みたいに感じてる)

 

池澤夏樹・編「わたしのなつかしい一冊」729冊目

次に読む本を自分で選ぶと、同じ作家やジャンルばかりになりがちなので、ときどき、人が勧めるものを試してみます。

推薦者は作家が多いけど、著書を読んだことのない人も多い。ひとつひとつ、思いがこもった推薦文です。読んでみたくなった本はたくさんあるけど、最近ほかでも推薦されていた星新一をまず、読みなおしたいですね。昔何冊か読んだけど、どれがまだ未読なのかもうわからない。なんなら全作読み直してみたいので、全集を探してみようかしら…。

 

アントン・チェーホフ「かもめ・ワーニャ伯父さん」728冊目

映画「ドライブ・マイ・カー」は村上春樹の短編がベースだけど、映画オリジナルのお芝居の練習場面もあって、演じられているのがこの「ワーニャ伯父さん」です。映像化されたもののソフトが見つからなかったので、戯曲を読んでみました。

最後に、”不器量だけど優しい”という設定のソーニャが、同じ貧しい生活を耐え忍ぶ伯父のワーニャに優しく語り掛ける場面が前述の映画で使われてるのですが、確かに印象的な場面です。がんばってもお金持ちにも幸せにもなれなかったけど、このまま頑張り続けて死ねば、神様がよくがんばったって言ってくださるわ。というようなことを言うのですが、本当にそういうしかないんですよね。そうやってなぐさめあうしか。映画館では、この場面で若くない男性たちが一斉に鼻をすすっていたっけ。男の人って大変なのね…。私は「そうそう、ほんとそうだよね」と勢いよく相槌を打ったりしてました。ほかの女性たちはどう反応したんだろう。

「かもめ」も短いながら印象的な戯曲でした。こちらは、純真な美少女ニーナが世間にもまれて強くしぶとくなるのが頼もしい。

やっと映画を見終わったような気分です…。

 

村上春樹「女のいない男たち」727冊目

<この本および映画化作品の内容にふれています>

「ドライブ・マイ・カー」を見たので再読してみました。

映画の原作になっているのは「ドライブ・マイ・カー」のほか「シェエラザード」もだけど、「木野」の中の妻の浮気を発見する場面も使われてました。でも、映画と全然違った!というのが感想です。そりゃそうだよな、村上作品にカタルシスの場面なんて見たことない。映画は、設定でいうと俳優「兼演出家」だけど小説では俳優。だから演出をしに東京を離れることもない。妻も脚本家ではなく俳優。名前はない。ヤツメウナギは「シェエラザード」の方に出てくるけど、物語を語るのは、どこかの家に幽閉されている男の家に毎週食料などを届ける主婦だ。妻の愛人、高槻が語る「物語の続き」は濱口監督の創作だったし、そもそも、高槻と主人公が「対決」する場面は原作にはない。ただ表面的なことを話して酒を飲むだけだ。高槻は妻子持ちの中年男性だし、事件を起こすこともない。渡利みさきのキャラクターは原作とまったく同じだけど、まさか広島(あるいは東京)から北海道までドライブすることはない。

つまり映画は、この本をモチーフにして濱口監督が作った「二次創作」なんだな。「ノルウェイの森」や「ハナレイ・ベイ」「トニー滝谷」のいずれも、かなり原作に忠実に作られてたんだなと改めて思う。

映画「ドライブ・マイ・カー」の対極にあるのが、この短編集の中の「木野」だなぁ。昔の村上作品にいつもあった、この世のものではない、執拗につづく「悪」からのコンタクト。これ読んだ後、しばらく引きずるというか、頭に残るんですよね。ホラー映画のなかでも、訳が分からなくて忘れられなくなる、B級トラウマ映画の結末みたいで。

立て続けに身の回りに不幸があったりすると、なにか自分に原因があるんじゃないかという考えに取りつかれて、心の平穏が遠のく。村上春樹作品はアウトサイダー・アートの世界最高峰みたいな面もあるのかもしれない。これも、いつも「中二」とか言ってたのも、揶揄するつもりではないです。今はアウトサイダー・アートにしか興味がなくて美術館にも行かなくなってしまった。あたまで考えたことではなく、人の心の中から出て来たものには凄みがある。

村上作品は、夢中になって読むのにストーリーも結末も思い出せないのが多い。少し前の長編を読み直してみたくなりました。

 

河野哲「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」726冊目

栗城史多さんの訃報、覚えてる。それまでの準備不十分な登山のしかたや、やたらと人にアピールする感じから、もしかしたら、山で死を選ぶ覚悟だったんじゃないかと思った。いったいどんな風に生きて死んだ人なのか、いつかドキュメンタリー番組やノンフィクションが出たら見てみたいと思ったけど、だいたい気づかずに過ごしてしまう。この本は、高野秀行氏が対談かTwitterで勧めてたおかげで発見できました。彼の書くものは100%すごく面白いけど、彼が勧めるものも同じ。この本からは、河野さんが栗城さんをじっと見つめて、しぶとく、しぶとく取材を尽くしたエネルギーが伝わってきます。

栗城さんが見せようとした「夢」は、平和で穏やかでしあわせなものではなくて、テクノでいうレイヴとかトランスみたいな、周囲の状況も自分もわからなくなるような高揚感、だったんじゃないかな。およそその中でずっと一生過ごしたりできそうにない、非現実的な世界。彼は登山を始める前から、生きることってしんどい、ずっと幸せで(高揚して)いることって難しい、いつどうやって死ねるかな、と考えながら生き続けたんじゃないのか。

彼のやり方はイヤだな、と感じる…虚構や過剰だらけで落ち着かない…けど、実は完全に共感できる気もするんだ。規模感は全然違うけど、私も故郷では足りず上京してきたり、アイスランドやら南アフリカにまで旅行したりする。本や映画の感想や旅行記をブログに書いたりする。もともと低血圧で常にテンションが低く、小さい頃はおとなしいとか暗いとか言われていた影響で、大人になってからは人前では常にテンションを保とうと、カラ元気とかカラ回りとかしがち。何か盛り上げなければ、という焦燥感というか使命感のようなものが根源的にあって、いつも疲れている。楽になりたいという気持ちと、辞めたら終わりという気持ちが心の中で戦ってる。高山に挑戦して億単位のスポンサーを必要としたり、全世界に発信したりする人と規模感は天と地ほど違うけど、似ているとか共感というより、私と同じという気がする。

注目されることは麻薬だ。誰も自分を見なくなってからの人生を、どう生きればいいか。長年勤めた会社を定年退職したあととか、世界中の誰でも直面する課題なんじゃないだろうか。

栗城さんの生前をしぶとく追った河野さんは、打ちひしがれてカッコ悪い彼、弱音を吐く彼こそを一番見たかったし報道したかったんだろうな。弱みを見せると楽になる部分もある。でもそれが新しい麻薬にもなりうる。誰も見ていない自分を肯定することって、SNSの世の中で、重要性がすごく増してきたんじゃないかな、と思うのでした。