ヘレン・ケラー「奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝」848冊目

このタイトルが誤解を呼んだんだな。原題は「The Story of My Life」。「奇跡の人」はサリバン先生のことなのだ。(「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」の感想にも書いた)まさに、2冊が対をなしている良著です。

と同時に、人はどうやって言語を習得するのか?という問いの答えが山ほど載ってる本でもある。最初に「指文字」でつづられるwaterやdollと実物を結び付けて理解するようになり、毎日毎日新しい単語を覚えていくけど、thinkやloveといった抽象的な言葉が意味するものを理解できるようになるまで、目が見えて耳が聞こえる子よりずっと長い時間がかかった、等。p46の文章を引用すると:

「聴覚が正常な子どもなら、耳に聞こえたことばを何度も何度も繰り返し、まねをすることでことばを覚えていく。つまり、家庭内で交わされる会話を聞くことによって脳が刺激され、話題を思いつき、自然に自分の考えを表現できるようになるのだ。ところが、この「自然な会話」の機会を、聴覚を失った子どもは手にすることができない。サリバン先生はこのことをよくわかっていたから、欠如している「会話の刺激」を与えようと努力してくれた。」

外国語が母語の人たちに日本語を教えるのも、これと同じか似ているんじゃないかと思う。

p50にはこうある:

「(サリバン先生は)退屈な細部のおさらいは軽くすませる。おととい教えたことを覚えているかどうか確かめようと、しつこく質問することもない。無味乾燥な専門事項は少しずつ教える。そしてどんな科目も生き生きと説明してくれたから、先生が教えてくれたことは記憶に残るのである。」

こういう教師になりたい、と思う。楽しければ忘れないのだ、言葉って。

と同時に、サリバン先生は自分の最善の部分をまっさらな彼女の中に展開した、と思う。お金の余裕もあっただろうし、サリバン先生っていう稀有な人が一生を一人の人に捧げたという特殊な幸運があったんだと思う。

文庫本の最後に、サリバン先生を舞台で何度も演じた大竹しのぶの寄せた文章が載っていて、その中に、彼女自身が盲学校を訪ねたときに、まだ言葉を知らない盲聾者の子どもたちに会ったことが書かれてる。彼らが”不幸”だとは一概に言えない、と大竹しのぶも書いているけど、それを踏まえてもヘレン・ケラーという人は人を引き付ける強力な魅力のある、幸せな人だったんだろうと思う。どうしても、そうはなれなかった人たちのことも気になっちゃうんだよね。自分に何かできるかも、と思ってがんばるのは、勘違いとありがた迷惑なんだろうと自戒しても、どうしても目をつぶることができなくて・・・。

いろいろな学びをくれた本でした。サリバン&ケラーの2冊は、語学教師になる人たちはみんな読むといいと思うなぁ。

 

岸俊彦・編「東京の生活史」847冊目

この人の本は何冊か読んでとても好きなんだけど、読むと、とてつもなく切ない気持ちになることがある。自分が見ないようにしている自分の暗さを思い出して、空騒ぎして自分で自分をなんとか楽しませようとしてる自分がむなしくなってくる。

この本でも、東京の人、ひとりずつに好きなように語ってもらっていて、その中の見栄っ張りや忘れたいことや思い出したいこと、人のやさしさや悪さをその場に自分もいるように”聞かせてもらう”のが、ときどき、いたたまれないような気持ちになる。

”いたたまれない”。それが生きるっていうことのリアルなのかもしれない。

この本を買う勇気がなくて、図書館で借りたら、2週間で5分の1くらいしか読めなかったので、また予約して、やっと続きを読み始めた。・・・そしたら、もう読まなくてもいいって思った。多分最初にこれを読もうと思ったとき、私には話し相手がいなかったんだと思う。今は、それほど生活が変わったわけでもないけど、直接いろんな人と話す機会を作ろうとしていて、少しずつ増えつつあるから、人の話をゆっくり聞きたい欲が満たされてるみたいだ。

だから途中だけど、返却します。そんな読み方もあっていい・・・ですよね?(ダメかな?)

 

村田喜代子「飛族」846冊目

<ストーリーや結末に触れています>

この人の本を読むのは久しぶり。好きな作家のひとりだけど、評価が確固としている分、いつでも入手できるので、つい後回しにしてしまう。

最近の小説には、老婆か初老の女性が多く登場する。この小説は老婆2人、初老1人。最初の頃の作品だと、主人公が異世界へ飛んで行ってそのまま終わるイメージがあったので、この作品では(タイトル通り)おばあちゃんたちが異世界へ飛んで行ってしまうんだろうかと思いながら読んでいたら、割と日常的な結末でしたね。異世界を経験したあとの、くったりとした日常、のような感じもありますが。今の私自身には、じわっとしみ込んでくるようで不思議な共感を覚えました。私もそうやってだんだん、小鳥みたいな小さい老婆になっていくんだろうな・・・。それもまた楽しみに思えてきました。

 

白洲正子「鶴川日記」845冊目

これもまた「一万円選書」から。白洲正子、お姿とお名前はよく知ってるけど、書かれたものを読むのは初めてです。

少し前にたまたま、鶴川に住む友人宅に伺うことがあって、車で「コメダ珈琲店」に連れて行ってもらったりもしたのですが、町田市の中心とはちょっと離れた、家族で落ち着いて住むところ、という印象の町でした。この本はタイムリーだなぁと思って読み始めたら、鶴川日記は最初の1/3だけで、あとは「都心の坂」と「心に残る人々」でした。どれも面白かった。

鶴川に関しては、第二次大戦末期に都心から移住して、茅葺屋根の古民家を再生する様子が記されていて、目の前で屋根が張られていくように生き生きとして面白いです。逆に、今の鶴川を思わせるものはあまりないんですね。当時の田畑が戦後一気に住宅地として開発されていって、当時を知る人から見れば多分あまり面影のない町になったんじゃないでしょうか。でも残っているのが、まさに白洲家そのものを展示している「武相荘」。併設のレストランも含めて、ぜひ近々訪ねてみたいです。

第二部は「東京の坂道」。都心の坂といえば、2022年の私は乃木坂は実在するけど、日向坂も吉本坂もないよなぁ、えっ欅坂(けやき坂)はいつ櫻坂(さくら坂)に改名したの、という連想をしてしまいましたが、この章では「赤坂」「三宅坂」「神楽坂」等々といったもっと基礎的な地名の由来をひもといています。都心はそもそも坂が多いんだけど、この章を読んでいると、「xx坂」と呼ばれていたものが今は「xx通り」と呼ばれるようになったところが多い。「日本テレビ通り」は日本テレビが建つ前は「善国寺坂」と呼ばれていたことはこの本に書かれているけど、それ以降も様々な名前が付けられてきたのだ。渋谷なら「道玄坂」は江戸時代に命名された説がある一方、「公園通り」はパルコにちなんだものだし「ファイヤー通り」は消防署。新しいものは「坂」でなく「通り」と呼ぶことになってるみたいです。

私は上京してからもう40年近いけど、長年武蔵野多摩地域で暮らしていて山手線の内側の地理にまるで弱い。それでも仕事でよく行ったビルなどを思い出しながら、改めて、都心の地理って入り組んでいて、小道も多いし上り下りも多かったなぁ、なんて思ったりしました。

最後の章で取り上げられている人々は芸術家や収集家たち。梅原龍三郎の作品はエネルギーが強すぎてやっぱり苦手だけど、熊谷守一や芹沢銈介の美術館には行ってみたいと思いました。当時ご存命で、同じく健在だった白洲正子が親しげに紹介していた彼らが、亡くなって遺品を寄贈した先が美術館になっているというのも、無常というのか、没してなお遺っているというべきか。今は訪ねて行けるけれど、やがて塵になっていくんだろうなと、この本を読んでいると感じるので、自分自身が健在なうちに早く行っておこうと思います。

「目利き」の才覚は、さまざまな分野でさまざまな度合い、さまざまな嗜好があるんだろう。ネイルのデザインやギャルファッション、アニメのキャラクターデザインなど、全ての新しいものにも良しあしがあるわけです。私にも好き嫌いがあったけど、なるべく節約しよう、とばかり思ってやってきたうちに、自分の嗜好を優先することを忘れてしまいました。今は時間だけはたっぷりあるから、自分の中から生まれてくる「好きなものと暮らす喜び」を、これからはもう少し追い求めてみたいものです。

この本からも教えられることがありました。ありがとう岩田社長。

 

 

藤本義一・選、日本ペンクラブ・編「心中小説名作選」844冊目

<すみません、全部ネタバレ書いてしまったので、これから本を読むつもりの方は以下読まないでください>

心中ものって歌舞伎とかでも嫌いな方なんだけど、理由があって読んでみました。

理由というのは私が愛読している作家、佐藤正午が今、突発性難聴に悩まされていて、とあるエッセイのなかで川端康成の「心中」という短編に出てくる神経質な「夫」の反応がその症状を思わせると書いていたことです。短篇集「掌の小説」を入手するのが普通だと思うけど、調べたらこの本にも収録されているので、あえての苦手分野づくしをやってみよう、という趣向です。

感想をいうと、すごく面白かった。人間の業ってほんとに面白い。心中小説集なので、みんな死んじゃうわけですが(タイトル落ちだよな)、読み終わってみると彼らが「生きた」ことがむしろ印象に残ります。心中って、老衰せずに生の盛りの時点で句点を打つということかもしれません。

こういうのを読むのが辛かったのは自分が若くて情死がひとごとと思えなかったからだろうか、今は興味深く読めるのは、半隠居で世俗から遠くなってしまったからだろうか・・・。

作品は以下のとおり:

川端康成「心中」

文庫本わずか見開き2ページに収まる、詩のような啓示のような作品。これに出てくる神経質な夫が、子どもの毬つきや靴で歩く音、茶碗でご飯を食べる音、そして一切の音が気に障ると言うわけです。で、読み解くことは不可能。どう読んでも心中とは読み取れない。でも才気走った、スリリングな才能を感じさせる小品です。

田宮虎彦「銀心中」

これはまた切なくなる作品。若い嫁が、戦死した夫の姉の息子(自分と2つしか違わない)を引き取って理髪店を続けているうちに、彼といい仲になる。しかしそこに死んだと思った夫が戻ってくる。何度も別れようとするけれど、忘れられない甥を温泉宿で待って待って、待ちわびて死を決意する。待つ間ずっと彼女を気にかけて親切にしていた宿の下男も、同情が高じて彼女の後を追う。「かわいそうで」という下男の思いが胸に来ます。

大岡昇平来宮心中」

養子に入った家で気遣いと仕事に追われる男が、飲みに行った先の女給とついできてしまう。二人とも、出奔して貧しくても二人で働いて生きていければ・・・くらいの気持ちで家を出るが、実家や嫁ぎ先から矢のような攻撃が降ってきて、ふっとその先の人生を諦めるのだった。・・・さまざまな面倒が、死ねば全部パーになる、という幻想は、ちょっとわかる気もする。

司馬遼太郎「村の心中」

隣村に奉公に出た少女のような娘が、元の村から自分を恋しいと夜な夜な忍んでくる恋人との仲を割かれて、あっさり心中を選ぶ。ただ、娘を死なせた若者は途中から怖気づいて家に戻ってしまい、出家するから許してくれといい、結局のらりくらりと逃げてしまう。思いつめて死んでしまう娘も、逃げてしまう男も、どこか共感できてしまう。(この本の中でこの男だけが生き延びます)

笹沢佐保「六本木心中」

アン・ルイスですね・・・。まだ子どものようなクールな美少女と、ちょっとメンタルな大学生がバブルな六本木で出会う。彼女の辛い状況に同情して母親の死に手を貸してしまい、留置所に入った男。そのからくりがばれたとき、差し入れのミカンには毒が入っていた・・・。

梶山季之那覇心中」

これも強烈。15歳の少年と、好色な中年女。じつは老婆。”ただれた関係”を清算するには死ぬしかない、という、少年の決意。返還直後の沖縄の物語です。

 

死をもっていろんなことを精算するのは、離婚より退社よりもっと究極的な断捨離の方法のようで、それを「心中」と呼ぶことでなんとなく美しく感じられて、しかも愛あふれる行いのようにまで思えてくるのって、ほんとに甘美な罠ですね。この年齢にして初めてこの甘美な部分に気づけたんだろうか。(大丈夫か私は)いやぁ人間ってほんとに、ダメで面白いものですね・・・。

 

立川談四楼「ファイティング寿限無」843冊目

これも「一万円選書」の一冊。すごく面白かった。さすが落語家。テンポの緩急が絶妙で、スリルと落としどころの感覚も鋭いし、言葉の選び方にセンスが感じられる。「自分はこれを表現したい」というより、読む人のために純粋にエンターテイメントとして書いてる感じ。

ごくふつうの主人公、と思ったら、異例の昇格、まさかの勝利。でもすでに読者は自分のこととして入り込んでるから共感は終わらない。落語もボクシングも順調だ。彼が師匠や先輩たちを心から愛し、尊敬していることも、共感をよぶ。で結局、彼はどちらを選ぶのか?

そこは最初からわかってる気もするけどね。

つまり、これ自体が「新作落語」なんじゃないかな?落語家って総合プロデューサーでありパフォーマーであり監督であり音響効果さんであり・・・ ひとりで全部作り上げる商売で、そのノウハウは師匠から弟子へと受け継がれていく。落語だけじゃないのかもしれないけど、芸術って純粋だなぁ。

サクセスストーリーでもあり、立身出世物語でもある。確かにこれは少年マンガの題材としてもぴったりでした。

 

アン・サリバン「ヘレン・ケラーはどう教育されたか ‐ サリバン先生の記録 ‐」842冊目

1973年に出版された本。図書館の「保存書庫」から引っ張り出してきていただきました。

先日、たまたま1962年の映画「奇跡の人」を見てけっこう感動したんだけど、最初の言葉「water」で物と単語の結びつきを学んだ後、どうやってヘレン・ケラーは抽象的な思考を身につけられたのか、どうやってセブン・シスターズの女子大を卒業するまでに至ったのかが知りたくて、参考になりそうな本を探してみた次第。

この本、ものっすごく勉強になった。何といっても、ほぼ全編がサリバン先生自身の手記や手紙なので、その臨場感。

私は妹弟も子どももいないし、部下を持つことも教育にたずさわることもなく、人に何かを教えられる人たちは天才かも、と思って長年遠くから見ていたので、不可能を可能にするようなサリバンの真摯な努力の継続の前にはひれ伏すしかないです。と同時に、最近始めた日本語教育ボランティアやそのための勉強のなかで、単語をただ暗記させるより効果的な教え方について考え込むことが多くて、この古い本(書かれたのは1890年代)に書かれた教授法の斬新さやサリバンの粘り強さにも、もう一度ひれ伏してしまいます。

方法論は大事。それが基礎。でも、その上で、生涯をかけてひとつの仕事に取り組むっていう覚悟や努力があったからできたことなんだな。私は何か、誰かのためにここまでやってきたことなんてあっただろうか?今はフルタイムの仕事を辞めて、会議や社内文書や職場の人間関係から解放されて、嫌なことしなくていいのって何て楽でいいんだろう、と自由を謳歌してたけど、誰かにとって必要な仕事をやってるという充実感がないのは、会社員のときと同じだな。まだもうしばらく人生が続くんなら、次の目標はちゃんと誰かの役に立つこと、かな・・・。(だいぶガタがきた身体のメンテも同時に進めよう)