河口慧海「チベット旅行記」下巻33

日本にまだ入って来ていない経文を取りにいきたいけど、チベット鎖国していて、きちんとリクエストしても入国許可がおりない、おりてもだいぶ先だ、だから中国人と偽って密入国する。というのが慧海の計画です。

行動の人なんだけど、まぁひどくマイペースで、周囲の善意の人は幇助罪でその後尋問されたりもしています。日本に帰国後も、宗教者として大成したという話はなく、一生マイペースのままだったようで、彼の約十年後にチベット入りした多田等観がダライ・ラマのご加護を受けたことと比較しても、なかなかの変わり者だったようです。

彼は繰り返し繰り返し、「チベット人はとにかく汚い、まず一生風呂に入らないし手も洗わずにトイレにもいけばご飯も食べる、」と書きます。チベットの部族のなかには昔人間を食べていた荒々しい部族があることや、ラマ僧の金や性に汚く乱れていることはなはだしい、ということもしきりに気にします。文化的にかなり近いブータンは、実際どうだっただろう。

久々に、1983年NHK出版発行の「秘境ブータン」や自分のブータン日記を開いて、ブータンについて確認。

荒々しいところのまったく感じられない人たちだったのは間違いない。どちらかというと怠けるほうが好きそうな、きわめて穏やかな人たちだった。私の会った人たちはみんな清潔にしてた。(トイレの整備はかなり足りてなかったけど。)

お寺の奥に隠されている「歓喜仏」・・・牛の頭をした男の神様が女の神様を抱いていて、周囲には人間の頭蓋骨や手足が散らばっているというおどろおどろしい仏像や仏画が、チベット同様、ブータンにもたくさんあります。人間は男と女がいてこそ完全な形だ、というのにはagree。自分の一番大切なもの、つまり頭や心臓を神様仏様にささげることによって最大級の献身をあらわす、という考え方はすごいと思う。少なくとも私は否定的には捉えたことがなかったんだけど、慧海はほとんど罵倒します。多分、ああいう形の荒々しい神様を発明したのは、チベットの荒々しい部族の人たちではないのかな。それが広く信仰されるようになって、おだやかな人たちにも受け入れられるような解釈が加えられてきたらしい。

チベットって、ブータンよりももう少し用心が必要な国なのかな。ブータンが面白かったからチベットに行こうってのは、ちょっと甘いのかな・・・って100年も前に書かれた本を読んでそんなこと思っても、しょうがないのかもしれないけど。

おりしも「西遊旅行」の豪華パンフレットが家にまた届いてる。チベットでもネパールでもシッキムでも、ヒマラヤトレッキングでも、7泊8日288,000円で今は誰でも行けるんですよ。「遥かなるブータン」の時代(25年前)を見てても隔世の感があるのに、1900年のチベットの雪山を徒歩で踏破したお坊さんの話というのはもう、遥かすぎて想像のしようがないですね。今は、世界中の秘境専門の旅行社が、お年寄りでも楽に参加できるようなツアーを用意してるので、本当に誰でもどこにでも行けちゃうのだ。エジプトに行ってピラミッドの中に入ったときや、ブータンの寺院で小坊主さんに水をかけてもらったときの気持ちは、行かなければ経験できないので、コレクションをするようなつもりじゃなく、一つ一つ味わえるスピードで、行ってみるといいと思う。一般的にどうだってのは知らないけど、「自分」にとっては、今のほうがチャンスが多い時代だと思うよ。