瀬戸内晴美「かの子撩乱」84

はー、面白かった。

一世を風靡した歌人・小説家であり、超流行漫画家だった岡本一平の妻であり、あの爆発する芸術の岡本太郎の母である、岡本かの子の生涯を描写した・・・これは伝記と呼ぶものなのでしょうか。

最初は、なにしろ大正から昭和の歌人ですから、引用してある文章の旧仮名遣いがとっつきにくかったり、短歌の世界には縁がなかったんでなかなか入り込めなかったんだけど、家族総出の洋行から彼女の小説家としての才能が花開いていくあたりから、ぐんぐん引き込まれて読んでいきました。伝記からノンフィクションになっていく感じ。途中、作者の瀬戸内晴美自身が登場して、かの子夫妻と同居していた愛人を訪ねるあたりで、色が一変します。

前半の伝記でも、金魚のらんちゅうのようにけばけばしく豪華絢爛で(今でいうと假屋崎省吾、ジャン・ポール・ゴルチェ、ゴスロリ、みたいな)、美しく知性的な男を好きになっては家まで押しかけてずっと居座る、ということを結婚してからも続ける、常識で考えられない彼女の性格などは十分描かれているんだけど、後半はそういう見た目でなく彼女とその家族の心の奥底までえぐっていくような描写が、怖いくらい読むものを引き込んでいきます。

好きな男の体の隅々まで調べ尽くすような、よだれを垂らさんばかりの作者の好奇心。瀬戸内晴美が一人称で登場して、かの子が死ぬまで同居していた愛人を訪ねる下りや、かの子の死後に出版された数々の名作の中に、どう考えても夫が彼女の死後に書き足したとしか考えられない心情吐露の部分があることを、文体や当時の批評を手がかりにあぶりだして行くあたり・・・お前はミス・マープルか、と言いたくなるくらいです。晴美自身は、自分のそういう情熱に駆られるところをかの子と重ね合わせているようだけど、私には、天然ボケで鷹揚なかの子と比べて、晴美のこういう執念深さは情熱的といっても質が違うように思える。美しいものを愛でる気持ちと、謎解きにはまる気持ちは違う。後者は徹夜でバグ取りをする気持ちや侵食を忘れてゲームにはまる気持ちと同質の、”見つかったらお母さんに怒られる”的な状態だと私は思うんだ。かの子には”しつこさ”というものがまるでない。

「かの子の晩年の傑作は、かの子だけでなく、家族(夫と、同居の2人の青年)の合作というべきものだった」というのが、この本のダヴィンチ・コードとも言える「謎」ですが、たとえば作詞家、作曲家、編曲家、ミュージシャンの面々やプロデューサーやマネージャ全員で作り上げたCDでも発売名はモーニング娘。だ、というようなもので、合作であるということは本来、よりよいものを完成させるために悪いことではないです。(ウソはいかんけどね。)文章の場合、名を冠した作者とは違う人物が書いたら問題になるのは理解できるけど、現実には今でも優秀な編集者がかなり手を入れた作品も存在するだろうし、偉い先生に手直ししてもらうこともあるだろう。本人の死後に出た本に、夫の苦悩や再婚話のことが切々と書いてあるのはやりすぎだと思うけどね・・・。

死後に夫は何をそんなに苦悩したか。

この夫婦はあるとき、夫が放蕩を反省して家に戻り、今後一生2人とも禁欲を貫く約束をしました。夫はそれを守りました。妻は愛人を追って出かけたり、連れ込んで一緒に住んだりしていました。当然交渉もあったんだけど、夫はどういうわけか愚直に妻も貞操を守っていると信じていました。妻の死後愛人に告白されて、自分の愚かさを嘆き苦しみました。・・・とてつもなく痛切で、かつ、悲しいほど滑稽です。オノヨーコがジョンの死後息子のショーン少年に「ママたちは無邪気(英語ではnaiveかなぁ)だったんだよ」と言われた、というのを思い出した。

ちなみにこの本でも息子は驚くほど聡明です。この本のなかで一番驚いたのは、太郎の心の深さ、細やかさですね。「太陽の塔」「芸術は、爆発だ」の人ですから、突拍子もない天才なのは彼で、家族は彼に振り回されたんじゃないか・・・くらいに思ってたんだけど、逆でした。まともに子育てのできない父母の中で育ち、小さい頃からきわめて老成していた太郎少年は、パリ留学中の母子のやりとりの中で、まるで父親のような包容力と深い理解を示して、童女のまま大きくなった母をなぐさめ、さとし、はげまします。母の死後は父をねぎらい、自分より若い娘との結婚や弟妹の出産を喜ぶ。こんなまともな人だったんだぁ、とか言うと大変失礼ですけど・・・。

なんつーかね、「人間はこんなに愚かで、だから美しい」やっぱこう思わせてくれる本は名作なんだと思います。一度しかない人生を、みんなとことん生き抜くべきです。聖人君子でなくてインパクトの強い人の伝記は面白いですね。以上。