1986年に文庫本の初版が出て以来、37刷を数える、息の長いベストセラー。
論文を書きあぐねている学生などに役立ちそうな、考えのまとめ方のヒントがたくさん詰まっています。
冒頭から末尾まで、徹底して、「教え込むだけの学校教育」を批判していますが、では何を推奨するかというと、明治時代の「漢語を意味もわからず暗誦させる教育はよかった」。わからないなりに覚えて、それがどういう意味だろうと自分で考えるところから学びが始まるといい、それが親方の背中を見て技を盗む徒弟制度に通じるといいます。
・・・ほんとかな。漢語を暗誦させると、興味をもってついてくる数パーセントの人は濃い学習ができるけど、戦後の日本はうすく広く、誰でもソコソコ字が読めて計算ができるための教育をしなければならなかったから、裾野を広げることに徹したんじゃないのかな。徒弟制度は職業だし、生活がかかってるから真剣にもなるだろう。漢語を純粋に学べるのは不労所得で食える人たちであって、一国が国民のすべてを教育する方針にはふさわしくないと思うのだ。だからこの人はむしろ、一般向けの教育の価値を認めた上で、少数の向学心あふれる人が受ける高等教育のレベルを上げることを考えて、提案をするとよかったんじゃないかと思う。
・・・とつい反論してしまうのは、内容がランダムで、エッセイ集という印象だからかな。同じことが何度も出てくるし、例の引き方などに「?」とクビをかしげる部分もある。37刷という数はこれが普遍的な名著であることを示す条件として十分なのかもしれないけど、読む側が賢く取捨選択したほうがいいような気がする。まったくの初学者には、私はこの本は薦めないと思う。つまり、整理学の本なんだけど、これ自体はいまひとつ整理されてないと感じる。(辛らつすぎますか?)
「発想法」は、手元に置いて何度も読み返して、使いたいと思ったんだけどなぁ。
以下、例によってメモ:
p45 自分の考え(ベース)があって、それを他人の考えと混ぜていくのが「カクテル」(よい考え)で、ただ並べるだけでは「ちゃんぽん」。ほかに、いまの学校制度で育てているのは風にまかせて流れていくだけの「グライダーの操縦士」であって、自力で飛行する「飛行機の操縦士」ではない、と繰り返し述べています。
p50 クリエイションとメタ・クリエイション。まず思いついたことをメモして、それを寝かしてから取捨選択し・・・を何度か繰り返して、テーマ別のノートを作る。ということを薦めています。「こんなのPCを使えば簡単だし、有意義だ」とも思う。一方、手でただ書くというのも、頭に叩き込む上ではいいと思う。これは後述の「三上、三中」に通じる単純作業なのかもしれないけど。
p66 おっと、1986年にセレンディピティに触れている。この人の解釈は単純に語義的で、腑に落ちないものもあるのだ・・・たとえば、試験前夜に勉強に没頭できず、関係ない哲学書を読みふけって、そのときにすばらしい発見があったら、それもセレンディピティだというのだが、それなら私がレポートを書けずに料理にふけって、素敵な新しいレシピを思いつくのもセレンディピティか!?ちがうと思うが・・・。
p113 「脳内の情報の整理はREM睡眠中に行われる。」要らないものは忘却の方へ押しやられ、重要なものはすぐ出せるところへ。・・・デフラグ?人間の脳も、完全に忘れるんじゃなくて、一生懸命思い出せばよみがえる記憶も多いらしいし・・・。
p117 本筋に関係ないけど「泥のように眠る」という表現が出てきました。私もこれ使うんだけど、ほかの人はあまり使わないみたいだ。出所は何なんだろう。あとで調べてみよう。
p172 三上(馬上、枕上、厠上)は考え事によい、と中国の偉人は言った。外山氏は無我夢中、散歩中、入浴中をいい考えが浮かぶ「三中」とした。無我夢中ってのは無理があるな・・・。「見つめるナベは煮えない」というヨーロッパのことわざを引いて、考えを寝かすことの重要性を説くのは、なるほどと思うけど。
自分の場合を考えてみると、お風呂読書中、ファミレス読書中、図書館読書中、というのが「三中」ですかね。動き回れないので、読書にちょっと飽きてくると頭が勝手にあちこち自由な思考を始めてしまって、読書メモにぜんぜん違うアイデアを書き連ねてることがある。昔は編み物中も、手が自由でないけどあまり頭を使わないので、落ち着いて考え事をするのによかったなぁ。
この本で一番役に立ちそうなのは、p134からの「とにかく書いてみる」という章だと思います。材料がたくさんあって、どうやってまとめようと迷うときに、「とにかく書いてみなさい」と説きます。どうしてもうまくまとまらないときは、スライドにしてみるのもいい。構成ができてから文章で書き始めるほうが早い・・・という話をきいたこともあります。
本ばっかり読んでないで、私もアウトプットしなければ・・・。
以上。