村田喜代子の小説はつかみどころがなくて、たぶん作者も意図してるんだろうけど、ボケ老人の話を聞くともなく聞いてるような感じだ。「鍋の中」以来ずっと、現実と創造の境目をわからなくすることに血道をあげてる。と同時に、「熱愛」では、突然消えてしまい、事故にあったかもしれない友達を、あきらめつつ絶望しつつ探し続けるという状況の人の心の動きに興味をもち、克明に想像し、描写しつくすというねちっこいプロ文章屋根性を見せ付けてくれます。
知りたい、書き切りたい、というおそるべき好奇心。そのエネルギー。
細田和也「作家の値うち」という本があって、そこでは村田喜代子は「うすい、物足りない」と書かれてるけど、たぶん童話や昔話だと思って読めばいいんじゃないかな。人間の真実に立ち向かっていく熱情みたいなものは、この人にはハナから全然ないので、彼には物足りないでしょう。
好きな作家なのでたびたび読み返してるんだけど、今回初めて私自身も「確かにうすいなぁ」と感じました。まとまりが少し足りない。ぼやっとしたおとぎ話の世界が、エンディングに向かってつながって1つに収束する・・・というのがなくて、だだっ広いところでぼんやりしたまま終わる。単行本じゃなく短編集という形で読んだのも原因じゃないかな。グレーテスト・ヒッツ(受賞作ばっかり入ってる)ではなくオリジナル・アルバムを聴かないと、作家の世界はわからないのだ~。
今回初めて感じたことをもう一つ。この人の作品には「人生をフェイドアウトする」、「迷惑をかけずに人生を終わる」的なモチーフが繰り返し出てくるんだけど、確かに自分が老醜をさらすのは怖い。私の母は50ちょっとで逝きましたが、年をとって迷惑をかけたくないと言っていた気持ちが、そろそろ私も実感できる年頃です。
そう考えると、年をとるというのはおもしろく興味深い。「老醜」はうれしくないけど、年をとらないとわからない領域に足を踏み入れられる。若いころは、年とってもロック聴くぞ!とか思ってたけど、もっと不思議な未知の世界があるのかも・・・。
解説者は、(解説者ってのは常にそうだが)大いに褒めてる。ドイツ文学者・エッセイストだそうだ。なんとなく、日本の小説や読者はものごとに意味を持たせなければ気が済まないかんじがするけど、ふだん外国ものを読んでる人なら、ほめるのもなるほど、と思いました。以上。