リリー・フランキー「東京タワー」152

吉祥寺に出かけたとき、古本屋の店頭で300円で売ってたので買ってやっと読んだ。ベストセラーは、読みたくても、買わずに図書館や人から借りられると思って、読みそびれるものが多い。

予想と違って日記のようなエッセイだった。もっとドラマチックで美しい小説のようなものかと思ってた。(違う人の書いた「Tokyo Tower」と間違えてる?)

帯にいろんな人の感想が書かれていて、それ自体とてもいいのだけど、帯からますます大泣きするような本かと思った。実際は笑い、だんだん暗い気持ちになり、全体的にはまるで自分の日記を読み返してるような個人的な入り込方をして、涙ぐんで終わった。

この人とはずいぶんニアミスをしてる。私が高校生の頃、この人は同じ町に建ってるもうひとつの高校に通っていて、この人は友達の友達の友達だったらしい。・・・って他人なんだけど、もっと正確にいうと当時の私のボーイフレンドから、一番仲のいい友達が「中川先輩」の下宿に住みついてるって話をしょっちゅう聞いてたので、その人だと最近聞いてびっくりした。一度も会ったことはないけど。

その後私が行った大学と同じ町に建ってるもうひとつの大学に、この人は通って、同じ玉川上水沿いの似たような下宿に住んでたらしい。

さらに、私が10年間通った会社の近くのボウリング場の上にこの人は住んで仕事をしてたらしい。動線がクロスすることはなくて、永遠にニアミスなんだけど、だから風景になんとなく見覚えがあるのだ。

家庭環境とか違うこともたくさんある。この人は、親が立派だと子供がいつまでも自立できない、の典型のようだ。

とにかくこの人の母親は明るく親切で働き者で、無私無欲の仏様のような人で、一方うちの親は凡人でネガティブでいつも金がない金がないと言ってたので、私は自立を目指してキャリアウーマン養成所へ進学。親に仕送りすることを夢見て勉学にいそしんだ、という訳。

・・・というのはウソで、自堕落で昼夜逆転でバンドばかりやって暮らしてました。すみません。でもなんか、母親が亡くなるという精神的な経験は、この人の経験がみょうにすーっと落ちるように入ってくる。大学卒業間際の11月末に私の母は亡くなり、ますますこの人の経験と自分の経験を重ねて読んでる。書かずにいられなかったんだろうけど、書いても救われるわけじゃなくて、どっかに漂ってるような気持ちでいつまでも暮らしてる。いい大人が。・・・というのが、とてもすっと落ちる。

おっと、ただの日記になってますね。書評っぽいことも書こう。とにかく驚くほどよい文章です。美術の才能がある、というか絵で写実ができる人は、シワやゆがみや陰を先入観なしに写し取って描くことができるから写実がうまいのであって、そういう人がペンを持って感じたままをそのまま文章にするといい文章になるんじゃないかと思う。

これはエッセイだから、二度と同じ題材のものを書くことはないだろう。魂をこめて一回だけ書いたんだろうな。普遍的な名作なのでいろんな言語に翻訳して遠い国で売っても受け入れられると思うけど、何億人の人が共感しても、この人のうすら暗い気持ちが明るくなるわけじゃない。かけがえのない人の死に際して罪の意識みたいなものを持ってしまった人は、それ以外の境遇がどんなに違っていても、同じ種類の暗闇にずっと悩まされる。

世話を怠ってウサギを死なせてしまうというエピソードが出てくる。・・・昔よく変な夢をみたなぁ。家でいろんな生き物を飼ってることを忘れて暮らしてて、あるときふっ、と思い出す。青くなって見てみると、いつから餌をやってないか思い出せないくらいなのに、なぜか生きてる。ああ、夢でよかった、って目を覚ます。自分は本質的に罪深いんじゃないか、わきまえて気をつけて暮らさなきゃ、という気持ちになる。・・・こういうのが、母親を亡くした人の気持ちに共通するところがあるかもしれない。父親ではなく。

作品そのものではなく、自分について語りたくさせる作品は、たいがい名作なんだ。ていねいに読んで自分の半生を振り返ってみてください。