林芙美子「浮雲」231

戦時中に仏印(いまのベトナムあたり)に農林省の官吏として駐在していた男 富岡と、タイピストとして赴任した女 ゆき子の、主に敗戦後日本に戻って来てからの凋落を描いた小説です。仏印での生活は、鮮やかな出会いを少々つづっただけで、あとはたまに思い出として回想されるだけ。全編を通して描かれる戦後の東京は、貧しくて荒んでいて猥雑で、富岡とゆき子は愛も生きがいも得られないまま、ただ「浮雲のように」流されていきます。もともと彼らの関係は、楽園のような南方の雰囲気の中で始まったもので、精神的なきずながあるわけではありません。富岡は戻りを待っていてくれた妻に目もくれずに、ゆき子のほかに若い人妻に手を出して、その夫が逆上して刃傷事件に発展したり・・・ゆき子のほうも声をかけてきた外国人としばらく付き合って、また富岡を追いかけたり、むかし自分をてごめにした叔父が始めた怪しい宗教団体にしばらく勤めた後に金庫の金を持ち逃げしたり・・・。

思うに、そんな時代にもこつこつ働いて積み重ねていった人たちも大勢いたはずで、みんながみんなこんな刹那的な生活をしてたら、日本は今も後進国もいいところだったわけで、あくまでもこれは「林芙美子的戦後」であります。登場する男も女も、まじめに一つの仕事を続ける人は一人も出てこないし、実直な人は必ずだまされ、軽薄なやつはやっぱり落ちぶれ、読んでて(ああ、いくら不況っていっても今はずっとマシだ)としみじみ思えます。

とはいっても、これは彼女なりのフィクションであり、極端な形で男女の孤独や焦燥感を描いてこうなったもの。当時ものすごい多作だったらしいのですが、非情に完成度の高い名作です。富岡もゆき子も、どうしようもない奴らだけど、誰でも多分、自分の分身のように身近に感じてしまうのでは。その説得力、登場人物の生々しさ。

早く亡くなってしまって、この後さらに円熟した作品が存在しないことが惜しまれます。

読んでみてよかった。これからしばらく、日本の純文学にふけってみようかな。以上。