新藤兼人「ひとり歩きの朝」本の271冊目

人間たちの生きざまを立体的に構築するのに長けた名監督の、ひとり語り。3ページずつのごく短いエッセイ集での新藤監督の“身の置きどころ”が映画のようにはつかめなくて、ちょっともどかしい本でした。映画「三文役者」にちょこちょこ監督自身が出演しているところがあるのですが、あくまでも遠目のロングショットで短く現れるだけ。人のことを語るのが仕事なので、自分のことをさらけ出すのはあまりお好きではなかったのかもしれません。

感想としては、なんだか寂しい本でした。

「三文役者の死」の温かさ、軽妙さと対照的です。この違いは、乙羽さんがそばにいるかどうか、なんでしょうかね。

長生き=幸せというより、デフォルトで孤独、悪い意味で。…という印象さえ受けます。何十年も信頼しあっていた友人がひとりひとり去っていく。うつ病ではないかと感じさせるほどの寂寥感が、本の中から悪霊のように立ちのぼってきます。。

確認したところ、「三文…」が書かれた1991年から、この本の元になった新聞の連載が始まった2000年の間、1994年に乙羽さんは果たして亡くなっていました。男って妻がいないと途端に弱くなるのね、と見るか、それとも、男って妻にそこまで頼りきって女のおかげでそこまで強さを保てるなんてうらやましい、と見るか。(書いてる私は後者だ、という意図が丸見えですね)

ひとりってのは寂しいものなんだろうか。

人はみんな(双子や三つ子でなければ)ひとりで生まれてひとりで死ぬ(大災害とかでなければ)。ひとりが寂しいのは、ひとりだからではなくて、心の中に大きな隙間があるからじゃないかな。

最後に近い「友情」という章の冒頭で“ながく生きることは、友を失うことでもある。つぎつぎと友が消えてゆく。その寂寥はどうしようもない。”といいます。40数年しか生きていなくても、小さいころにテレビに出ていた人たちが次々に死んでいきます。新藤監督も逝ってしまいました。だいぶ前に母は逝ったし姉の女の子はわずか5歳で天に召されました。亡くした人の数が問題なのではないと思うけど、ある程度の量に達すると質も変貌するのかもしれません(なんか科学書にでも書いてありそうなことを私ったら)。

さて、この本を読んで調べてみたくなったことがいくつかあったので、メモしておきます。

「読書の楽しみ」から。“チェーホフの「かもめ」を読めば、テネシィ・ウィリアムズの「欲望という名の電車」を読んでみたくなる。その対比はわくわくするほど興奮する”…両方読んでないので、読もう。

「小倉の巨人」で松本清張の「下山国鉄総裁忙殺論」「推理・松川事件」にふれている。ドキュメンタリーなのかな。これも読んでみたい。

「猫劇場」でロシアの猫サーカス“クララチョフ猫劇場”に触れている。

動画を見てみると、確かに芸をしていて面白い。

「妻を撮る」広島の監督、川本昭人が原爆症の妻を撮り続けた「妻の貌」…見てみたいけどTSUTAYAではレンタルしてないのね。

「アッセンデルフト考」でふれている“アッセンデルフト”とはトールペインティングの一種らしい。空想の絢爛たる花園のようで不思議な魅力があります。

「神か人か」福島瑞穂(政治家とは同姓同名の別人)の絵。ググってみたら、もう暗黒絵画ですね。幽霊とか悪魔とかのイラストを描こうとしてもぜんぜん怖くない私としては、うらやましいくらいです。どうやったらこんなに怖い絵が描けるんでしょう。

…つかみどころがない割に、得た情報が残る本でした。ということで、以上。