Haruki Murakami "1Q84" 319冊目

日本語版は2年前に読んだ。これは、去年NYに旅行したときにChip Kiddの装丁(ペーパーバックでも素敵)につられて買った英訳。小説を英語でさらさら読めるほどの語学力ではないけど、きわめて平易で難しい単語も少ないので、速読の練習だと思ってがんばってみました。といっても読み始めてからだらだら中断したりしてたので、半年くらいかかった…

 

ストーリーはほとんど覚えてたけど<ネタバレ>タマルも撃たれて死ぬと思ってたのはなぜだろう。あと、Tengoはじつは猫の町から帰ってきてない可能性があるという含みがあると思ってたのも不思議</ネタバレ>。そして、細部までは理解しないままざっくりと読んだ英語版では、日本語のときとはまた違う感想もでてきた、というか、前からむずむずしてたものがもう少し明確に自覚できた。

 

著者が、会社とか国家とか、”なにか大きいもの”を意味する「システム」と呼ぶものに対する関心や知識はおろそしくナイーブだ。会社の英語は仲間という意味のcompanyだし国家というものには奪われるものだけじゃなく恩恵を受けているものもある。自分を社畜と呼ぶ人たちの中には、たいがい、卑下しながら内心それを楽しんでいる部分がある。自分と比べて巨大なものにただ恐怖するばかりで、対峙しない。恐怖が大きすぎる。それが常態化している。それでもこの作品では「対峙」しないまでも「自力ですり抜ける」ことに成功していて、ただ沈黙して内向していた以前の主人公たちより大人になってる。といってもがんばるのは女性のほうだけで、男性のほうは、なにも自分からアクションを起こせないまま終わった。

 

「壁」と「卵」。卵がかよわく善きもので、壁が巨悪であるっていう意味で言ったとは思いたくない。壁はじつは卵が膨大な数、集まったものだ。ということを、鋭い観察眼を持ち続けてきた人が見抜いていないとは思えない。卵のなかには、かよわいまま一人でいようとするものと、固まって強くなろうとするものがいる。固まると実際強いからだ。加害者・被害者という言葉は、あくまでも相対的なものであって、決して絶対的なものにはなりえない。これを絶対的なものだと盲信した瞬間、その人はすでに逆側の壁に取り込まれている。

 

こういう繊細な作品を書く小説家は日本には昔からいるけど、太宰治よりも村上春樹が海外で広く読まれるのは、現代的なところがあるからなのかな。日本にもどの国にも、小説を読む人間と読まない人間がいて、いまどき小説を読む人しかこの小説を読まないから、そういう人には共感できるのかな。世界の中二王、とか言うと怒る人がいそうだけど…

 

ノーベル賞を文学に与えるってこと自体が無理筋な気がするけど(ノーベル音楽賞や絵画賞もないし)、もらった人とまだもらってない人・もらわないままだった人はどこがどう違うのか気になります。

 

それにしても後を引く。あまりいい気分じゃないけど、未解決感が強くて、結論を出したい私のような人間はイヤなハマり方をしますね…。