村上春樹「雑文集」320冊目

1Q84を読み返して、それからこの本を読んで、やっとすこし村上春樹っていう人のイメージを持てるようになった気がします。
どういうイメージかというと、「セカオワ」の深瀬くん(と、カオリちゃんがその妻)。というと極端だけど、ひどく繊細で才能豊かな男性がいて、彼を守り抜くことを決めて生きている女性がいる。彼らは彼女たちに守られて、「壁」と直接対立することなく、自分の中に果てしなく広がる猫の国のなかで創造を続けている。彼らの作品世界は日々とぎすまされていくけれど、外に出て壁と向き合おうという意欲は薄れていきつつあるから、壁に対するイメージは子供っぽいままだ。

 

彼の小説を読み切ったときの、物足りなさというか、満ち足りてるけど違和感がある感じが、すこしわかった。彼の小説世界そのものが、あまりにも吸引力の強い別世界だから、抜け出せない感じが残って、夢の続きを見たいような気持ちで、次の小説も読んでしまう。現実世界と重なる部分がない(事象もだけど感覚や感情も)から、ゲームに没頭しすぎたような後ろめたさが残る。
前に進んでいく感じがない。ずっと昏睡状態のまま猫の国にいるほうがいいんじゃないか、という気持ちになる。

 

「この世に生命を受けるということは、外の世界に触れるということだから、安全なところで身を守ることだけでなく、自分と相容れないものと交わって影響しあうことも大切だ」と思う人には、認められない猫の国小説なのかもしれない。これが絵画なら、風景を描こうが人物を描こうが内面世界だけを描こうが、評価軸はぶれにくい気がするけど。

 

あ、「社会性の欠如」っていうやつなのかな。

 

私は、「壁」を作る人が猫の国の出身だったりするといいなと思ってるから、猫の国より外の世界にいることのほうが多いし、二択なら外の世界のことを書いた小説のほうを選ぶ。いやでも村上春樹ほど読んでる小説かあんまりいないかも。本を読んでいる時間より自分のことを考えてることのほうが多い。猫の国というのは自分自身の内面ってことだから、結局のところわたしもあっちの人間なのかな。

 

書いた人のプロファイリングをしたがるのは、読み手としては悪質で本質から外れてるかもしれないけど、そんな感じですこし腹に落ちました。