ディーリア・オーエンズ「ザリガニの鳴くところ」615冊目

ミステリーであり、ひとりの女性の壮大なドラマであり、湿地の物語でもあります。

全体的にはファンタジーだと思ったほうが良さそう。親や兄姉に次々に去られて、学校にも行かずひとりだけで自活しながら美しく成長し、学者たちを驚愕させる自然誌のベストセラーを何冊も著した女性…という設定にリアリティはあまりない(すごくよく書かれているにもかかわらず)。この小説の中心となる殺人事件の動機やテクニックには、それにも増して説得力が薄い。それでも長期間にわたって全米ベストセラーを続けているのは、リアリティ以外に強く人の心に訴えかけてくるものがあるからに違いありません。

それは何か。「ホワイト・トラッシュ」=貧乏白人、と呼ばれる最下層の人々、黒人の雑貨屋夫婦に施しをされなければ生き延びられなかった彼女に、共感はしないまでも同情することで自分には屋根もベッドもあると安心できること、か。

湿地や沼地に見られる、清濁あわせ持った 自然の恐ろしさや美しさに触れて、自分たちがどこから来たか、という生命の大きな流れに包まれるような気持ちになれること、か。

読者によって、読み取ったり受け取ったりしたものは違うんだろうと思います、著者の意図が何であれ。

この著者、すごいですね。69歳で初めて書いた小説。人にはみな語るべき物語があると思います。それが熟成されて表現された。自然や人間関係の描写の精緻さや、彼女の積み重ねてきた専門領域や人生経験をほうふつとさせます。その一方で、10代の新人が書いたような、思いが先走ってリアリティを欠く部分(犯人らしくないアリバイ工作の精緻さとか)も目に付くのですが、誰がなんと言おうと彼女はこの物語をこの筋にしたかったんだろうと思います。

全然完璧ではないけれど、広大な沼地の広がりや人間、動物、自然のつないできた時間の壮大さまで感じさせる、大作です。

ザリガニの鳴くところ

ザリガニの鳴くところ