ホルヘ・ルイス・ボルヘス「伝奇集」681冊目

ベルトリッチ監督「暗殺のオペラ」を見たんですよ。で、原作も読んでみたくなって借りてみたわけ。この本でボルヘスは、書かれなかった本のあらすじだけを語るっていう体裁で、いろんな物語を語ります。その手法は、ズルいくらい読みたい心をそそる、読む人の気持ちを知り尽くした読書者ボルヘス。小説の中で一番面白いのは帯で、映画で一番面白いのは予告編。(かもしれない。)しかし、そそるだけで答えをくれない。読者をけむに巻くのがボルヘスのやり口。これ、最初にやったもの勝ちだなぁ。

最初の「八岐の園」の2番目の物語「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」でもうつまづいた。事典の同じ版の違うコピーの一つだけ、ページ数が多くてその余分なページに「ウクバール」の項目があると「私」が語る。…次の章では私はどこかへ行って突然ハーバート・アッシュという男のことが三人称で語られる。どうやら1章で言っていたウクバールは架空の国で、2章で言っているトレーンというのは架空の天体。相互の関係はない。2章の後半にやっと「私」が戻ってきて、トレーンについて書かれた書物とハーバード某との関係や、トレーンの言語文化(デタラメな)について語る。…「オルビス・テルティウス」は?→附章で、「トレーン第一百科事典」の改訂版の名前だということが明かされる。…まことしやかにデタラメに架空の星や国の文法などについて語るあたり、筒井康隆みたい。真剣にその文法の組成を理解しようとしてはダメだ。読めば読むほどバカバカしくなる、くらいでちょうどいい。

続く「アル・ムターシムを求めて」では、これまた架空の、ムスリムの家に生まれたのに神を信じない青年(名前は出てこない)が冒険の果てに神のような存在、アル・ムターシムを探す、という物語のあらすじを語る。しかも、そのあらすじを小説として語る上で伏線をはりめぐらさなければならないとか、ズルい、実にズルい。今ならボリウッドで本当に作られていそうな荒唐無稽っぷり。

その次の「「ドン・キホーテ」の著者、ピエール・メナール」も、建付けが実にわかりにくい。”直喩”で言うなら、「現代(ボルヘスの当時)の作家が現代の文筆界の人間として「ドン・キホーテ」を書いたとしたら?」なんだけど、それを”隠喩”で、「ピエール・メナールはドン・キホーテを書いたのである」と言い切っちゃうから。リライトでも現代語訳でもなく、現代の人間が当時のスペイン語で書くから、メナール版のほうは(文章は一語一句違わないのに)「擬古体」とされる。なんてひねくれた文才なんだ。こんな屈折した純粋な文学的努力が正しく評価されるなんて、アルゼンチンってところはなんて文化レベルが高いんだ。
「円環の廃墟」では、いまならバーチャル・リアリティとか架空のキャラである"息子"自分の想像によって生み出す男について書いています。最初は心臓、次は…とひとつひとつの部位を丹念に思い浮かべて。息子自身が、自分だけが他人の想像の存在であることに気づかないよう心配りをするんだけど、結局のところ息子だけでなく、男自身も他人の想像によるものだと気付くという結末。いまなら「メタ構造」と一言で言いきれてしまう短編だけど、1941年にこれを書いたのって、すごい想像力。この人の作品って、全部理解しようと思わないで、するする読んでみたほうがすごく面白い。

「バビロンのくじ」では、売価が0円のくじが全国民に発行され、当たりの極みは高額の現金、外れの極みは死刑…と、「運命は誰がどうやって決めるか」をイメージしたのかな、と思われる短編。

改めて読みなおした「裏切り者と英雄のテーマ」(「暗殺のオペラ」の原作)は、舞台がアイルランドになってるけど、それはヴェネチアでも南米でもポーランドでも良かったとまずボルヘスは書いてる。独立紛争があった国ならどこでもよかったということ。英雄と思われている者が実は裏切り者であった、という設定は、それだけで作品がいくつでも書けそう。(このあと6篇続くけど、集中力切れてきた)

あらすじと、その小説の書かれ方がわかっていれば、読む必要はない…という感覚は、いままでイヤというほど小説を読みまくった人にしか持てない感覚だと思う。イヤというほど映画を見まくっていて、あらすじとクライマックスだけ見られればいいや、とたまに思ったりしている今の私には、(当人の才覚は別として)その気持ちが少しはわかる。Wikipediaボルヘスを見てみると、この本が書かれた10年後にはほとんど視力を失っていたらしい。すでにこの頃視力が弱ってきていたとすれば、こまごまと執筆することが辛くなっていたのも、「あらすじを語る」ことに終始した理由の一つと考えていいんじゃないかな。

ガルシア・マルケスノーベル文学賞を取ってボルヘスが取らなかった理由について、私ごときに思い当たることがあるとすれば、ボルヘスは尖っているし難解だから(すっごく面白いのに、面白さがわかるまでに要する時間と努力が半端ない)。ガルシア・マルケスの私が読んだ数冊は、物語になっているのでするする読めるのに、読み終わると異世界に連れて行かれたような不思議な感動が残る。この「不思議な感動」こそが芸術のダイゴ味ですよね?

映画も本も、本当に気に入ったものを何度も何度も繰り返し味わうほうが、面白いと思うものも思わないものもとにかく数をこなすより、濃い体験ができるのかもな。ただ、片っ端から乱読、乱鑑賞しないと、運命の作品には出会えないのがツライところ。

この本は挑戦するハードルがものすごく高いけど、繰り返し、繰り返し読んでいるうちに、頭の中でストーリーがどんどん広がって、ベルトリッチみたいに表現してみたくなる本かもしれない。読む人がどういう仕掛けで刺激されるか、という観点で読書してみるのって面白い。

(すっかり長くなってしまった!)

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)