村上春樹「一人称単数」711冊目

<ネタバレあります>

英語(いや他のヨーロッパ言語でもいいか)の翻訳をする人しか思いつかなさそうなタイトルだな。

この短編集のなかでは「チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ」が好きだったな。「謝肉祭」でも音楽愛が書かれているけど、最初からなんとなく不穏な空気がある。「ウィズ・ザ・ビートルズ」の少し暗くて切ない感じは、この著者の長編でも感じるもので、その暗い切なさは”届かない一方的な愛”にあるのかなという気がする。彼に愛されなかった美少女は、ほかの人からも(夫とか)特別愛される特徴がなかったのかもしれないし、自分が愛するものを主人公の男のほかに見つけられなかったのかもしれない。こういうとき、自分が「愛してたしきれいにしてたけど愛されなかった女性」と重ねて読んでしまうんだな…。

この人の作品には「美しく太った女」とか「今までで会った中で最も醜い女」というように、女性を容姿で判断する表現が出てくるし、それは主人公がその女性を相手に性行為に及べるかどうかという話にも通じる。(わりと幅は広くて、どうしてもダメな場合だけ特筆される感じ)女性の私からしてみると、異性と出会ったときに何でいちいち自分の性欲の対象かどうかなんて聞かされなきゃならないんだろう、そこが肝なのか?と感じてしまう。その後の話の筋に必要とも思われない頻度で主人公は出会った女性たちと行為に及ぶんだけど。「謝肉祭」の不穏さのことをいうと、主人公(この著者の作品のなかでも特に本人っぽい)の出会う醜い女性の、容姿以外の完璧さとのアンバランスが、主人公はそれに惹かれるというのだけど、読む人はそこまで気にしながらどういうふうに惹かれるのか共感できず、ずーっと不安なまま最後まで読むことになります。

村上春樹の作品には、美しい女性が付き合っている悪(と言い切れるほどの男性)からむしばまれるようなストーリーがよく出てくるくらいで、彼自身、「システム」と呼んだりする「絶対悪」を憎む気持ちが強いのに、それにふらふらと引き寄せられているのも、本当は彼自身ってことなんだろうか?ほっとけよそんな怪しい人たち、距離さえ保ってれば死にはしないよ、とか思ったりするんだけど。

「一人称単数」は、美醜は別として、わりとよくある(と自分で思っている。そしてときどき人に「会ったことありましたっけ?」と言われたり人違いされる)容貌の人でないとなかなか書けない作品だと思う。自分の知りうる世界を超えたパラレルワールドだし、突然来る脅威だ。普段と違う服装をしたら違う自分になってしまうんじゃないか?という小さな恐怖を増幅したらこんな小説ができる。村上春樹はメジャー中のメジャーな作家だけど、この主人公が店を出てから見る世界は「アール・ブリュット」の絵画みたいだ。彼や彼の作品の中の人物たちは、ちょっとした異常や異次元をいつも引き寄せる。

私はこの人の作品を好んでほとんど全部読んでいながら、ノーベル文学賞は違うだろう、受賞者の作品に私が感じる「神の視点」がない、といつも思ってるけど、論理の帝王みたいな人たちだけでなく、アール・ブリュットの神髄のような、草間彌生のような作家として村上春樹をとらえてその対象とすることは可能だろうか?

わからないものをわからないまま戸惑いの対象として書き続けることにも高い普遍性を見出すべきなのか、絵画と文学の評価基準は違うのか。

そんなことを考えたりしながら、読み続けていこうと思っています。