佐藤正午/東根ユミ/オオキ「書くインタビュー4」718冊目

1~3は2017年に一気に読んだんだけど、その後は連載も読んでいたので、既視感がすごい。連載された何かをまとめて後で読むなんて経験は、大昔の月刊少女マンガ以来じゃないかなぁ。この本に関しては、全部が全部既読というわけでもないので、読んだことがあるような、ないような、と感じながら、自分の記憶力を試されているような緊張感をもって読みました。(おおげさ)

インタビュアーは2人目の東根さんの産休にともない、編集者である「オオキ」氏に途中交代。東根さんも最初の伊藤さんも、ファンのような態度で大作家に接する感じだけど、多分個人視点で普段書いてるものはもう少し楽しいんじゃないかと思ってググってみたけど情報ほぼ0。記名記事って少ないのか、それとも普段は紙媒体だけでライターをやってるのか。…検索に引っかからないのはインタビュアーを私も感想ブログのタイトルに書いてないからかも、と思い当たって、追記しました。ただ、編集者オオキ氏は謙虚にもフルネームを本のクレジットにもどこにも書いていないので「オオキ」のままです。

第4巻では連載中に佐藤正午直木賞受賞!という作家史上最大の快挙(多分これを超える賞、たとえばノーベル文学賞はないという前提で)があって大いに興奮したのを思い出します。

人って言葉の使い方も常識も、自分の世界の中では一貫しているけど、隣に住んでる人が狭い閉じた業界だったりすると、まったく違ったりする。狭い閉じた業界というのはたとえば研究者とかユーチューバーとか小説家とか。自分の小説と自分の好きな小説と新聞だけ読んでいるプロが、自分と違う感覚で言葉を使う人に感じる違和感って巨大だろうなと思います。このインタビューが連載されている「キララ」(今はWeb雑誌だけど、冊子で出ていた頃)が届くと、これ以外の記事は私にはツラくて読めなかったから。すごく広い分野の作家の文章を集めた冊子で、連載小説もいくつも載ってたのですが、若いというかなんというか、キラキラしててうるさくて、せっかく載ってるんだから読んでみようと何度挑んでも途中でギブアップしてしまいました。自分の文章表現にこれほどウルサい作家が、自分の美意識?に合わないものを書く人とやりとりするのは難しいだろうなと想像します。

インタビュアーがオオキ氏に交代してから、一気に連載が佐藤正午のいつもの世界に戻っています。そこはまるでもう佐世保競輪場。この違いは、個性を見つけてもらえなければ仕事にならないフリーのライターと、どんな個性も受け留めて、ときに育てていくのが職業である編集者との違いなんじゃないだろうか。編集者は作家の作品そのもの、書く態度やスタイルや”ビリーフ”、それ以外の作家の性質をよくよく把握したうえで、目指す作品を最後まで拗ねずに書いてもらうという重責を負った職業だ。自分より年上の手練れに向かって、ときにダメ出しをしなければないし、値付けや金銭的な交渉までしなければならない。ましてや「オオキくん」は文中で「ゲラの直しは任せた」と、手練れの直木賞作家から確認を任されるほど信頼度の高い編集者だ。そりゃ受け留め方も違うよ。

こうなってみると、ピキピキと読むほうも緊張していた以前のインタビュアーとのやりとりも貴重でした。

早く続きが読みたいな。(Webでずっと読んでるけど)ハトゲキの映画にまつわる話についても見てみたいです。