なかなかの問題作じゃないかと思う。晩年急にネット右翼だけが使う特殊なスラングを使い始めた父を嫌悪した著者が、父の死後に「なぜそうなったのか」を調査するうちに、問いが「本当はそれほどのネット右翼ではなかったのではないか」「なぜそう思い込んでしまったのか(自分自身が)」へと変遷していった状況を記録した本。
自分の行動のベースになっている感情や事情を解き明かそうとする、というアプローチを見て、アニー・エルノーの「シンプルな情熱」を思い出した。感情そのものは両方ともドロドロとして生々しいものだけど、アプローチがあっちは解剖学者みたいで、こっちは心理学者みたいだ。調査する視点があっちは冷徹だけど、こっちには愛があふれている。でもどっちにも共通しているのが、今この世の中に決定的に欠けている「ちゃんと調べる」という強い意志だと思う。
誰かが言ったことを本当のように伝えるものがいて、ろくに疑いもせずに信じて伝播することに被害者意識しか持たないものがいる。
いつかどこかで話すことがあるかもしれないけど、私は事実とちがう”風評被害”で何度も実害を受けたことがあるので、本当にそういうのはやめてほしいと思う。どんな人もどこかで立ち止まって、気づいて、考えてみてほしい。
あと、事実って「これはこうだ」と納得した瞬間、別の新しい可能性があるものだと思う。科学がいくら発達したといっても、摩訶不思議な森羅万象を解き明かすことは、私が生きてるうちは少なくともむりだ。この著者はきっとそれほど遠くない将来、自分がたくさん誤解していた父が、自分のそういうところを認識したうえで、ちゃんと愛してたことに気づくんじゃないかな、という気がする。自分の誤解をあらかじめ赦していたことも。そうやって、実の子どもではないにしろ、次の世代の人たちをいつくしんで、育てていけばいいんだろうな、と思う。
そんなことを思うような、父と子の愛の物語、のようにも思える本でした。いい意味で。