こう見えて(どう見えて?)私は、ビジネススクールとやらを卒業している。かなりドメスティックな学校だったとはいえ、そこではカタカナ用語でビジネスを分析すれば成功するかのような会話が行われていたものでした。それが20年近く前だ。その後、外資系企業を辞めて日本の会社に移ったら、それらすべては義理人情や個人的な恩義と怨恨で置き換えられ、カタカナとテクノロジーに対するヘイトが横行していた(っぽい感じ。かなり大げさに書きました、すみません)。
そんな時間を経て、ビジネススクールで学んだことは仕事には全然役に立たなかったけど、外資系企業のアメリカ本社では、その言語をしゃべれることであやうく出世しかかったり(すぐにメッキがはがれることが見え見え)、各業界の各社から来ている学生の顔色や元気さを見ているだけで、株価の上下が予想できるようで、いろいろな意味で社会勉強になったと思います。
そんなすれっからしの私がこの本を読むと、まだこんなことに血道を上げている人がいるのかなと思ったりしたけど、最終的に、実力があるけどビジョンがない「沼田」が消えたあたり興味深いと思いました。でもどうしても理解できないのが、著者のいう「ふまじめな考え」vs「まじめな考え」って部分だ。彼から見ると、銭湯の再生をはかってたはずが、家族を持ったことで収入の重要さに気づいて、湾岸に移転して新しいスーパー銭湯を作ることにしたのは「ふまじめ」らしい。ならばまじめというのは、どんなに燃料代が上がって客足が遠のいても、決められた料金で毎日営業をつづける、昔ながらの銭湯をつづけることなのかな。家族を養うことのほうが大事じゃないのかな?日本語教師仲間のなかには、この仕事が大好きだけど、離婚して子どもを一人で育てることになったとき、この仕事ではやっていけないので、給料のいい仕事に転職したって人がいて、私はすごく尊敬してるけど、そういうのは教師という仕事に対しては「ふまじめ」だとでもいうんだろうか?(その人は定年後この仕事に戻ってきたけど)。
そういう部分が、飯を食って健康に生きていくことより理想を重視する、不必要な原理主義のようにも感じられてしまう。
仕事なんて何でもいいんだよ、少なくとも私はたいがいの仕事に対して一生懸命になれる、働くこと自体が好きだから。
この本はとても面白かったけど、これは皮肉なのか、何なのか?私はものごとの隠れた意味を読み取れず、言葉通りに受け取ってしまうことがあるので、読み取れていないのかもしれません。他の本も読んでからまた感想を書きたいです。