都築響一 編「Neverland Diner - 二度と行けないあの店で -」1041冊目

魅惑のタイトルですよね。おとぎ話の中のレストランだとしたら、ハリポタ施設の不思議な色のデザートとかありそうだし、大人向けだとしたら、村上春樹の小説の中に出てくる、あっちの世界の居心地のいいバーとかありそうだし。

でもこれはいろんな人たちが「自分の幻のレストラン」を語るエッセイを集めたもの。いろんな、本当にいろんな人がいて、何やらバブルの香りの濃い、当時の流行の語り口で自分の個人的な経験(失恋が多い)を語っていて、見ているだけでお腹いっぱいになってしまうものも多くあります、料理よりむしろ個人のエピソードで。個人的には、店そのものの、店主店員や、料理の味や特徴(おいしくても特に特徴がなくても)、雰囲気や客層、場所などにどっぷり浸りたいので、エピソードはもしかしたらほとんどなくてもよかったのかもしれない。

特に印象に残ったのは、小宮山雄飛のリスペクトあふれる文章と、ヴィヴィアン佐藤の愛に満ち溢れた文章。なんらかの文章書きやエンタメビジネスに関わっている人がライターには多いようだけど、この二人は特に人前に出て見られることに慣れていて、失礼のない文章を書くことに心を砕いている感じもありました。

で、読まされるほうは迷惑だとわかってますが、ここは自分のブログなので自分のネバーランド・ダイナーを思い出して書かせてください。

若い頃は外食の習慣というかお金がなかったので、よく行くレストランの思い出が全然ないのですが、最初に思い出したのが故郷の繁華街にあった「梵天」という名のカウンターだけの喫茶店だな。中学生のとき、ミニコミ誌に鍋で淹れるコーヒーと紹介されていたのを見て背伸びして行って、そこでグアテマラが好きになったという、コーヒー好きの私の原点です。その後気になって何度か探してみたけど見つけられず、多分一回しか行っていません。

次に思い出したのは高校の学食。あそこは美味しかった。ラーメン180円も美味しかったけど、炊き込みご飯を炒めたような「おふくろの味」という皿盛りのご飯180円が最高でした。すぐ売り切れるので、学校指定のスリッパ(トイレによくあったやつと同じ)をペタンペタンと鳴らしながら、食券の販売が始まる10:30を目がけて、休み時間に廊下を走ったものです。卒業してからも何度か食べましたね、休み時間にしか出られない現役高校生を尻目に、オープンと同時に学食に行って。あの学食が廃止されたと何年か前に聞いたので、あれもまたネバーランド・ダイナーといえるかもしれません。

私のエピソードはそれくらいです。この本で取り上げられていた中では、吉祥寺のシャポー・ルージュと荻窪の丸福には私もよく好きで行きました。丸福は店の人が怖いので、いつもおずおずと入って、ひたすら黙って食べてましたが、あまりのおいしさに毎回スープまで完食して「は~っ!」って満足な溜息をつくと、怖いおばちゃんがいつもそのときだけ微笑んでくれたような記憶があります・・・記憶違いかもしれないけど。

佐藤正午「冬に子供が生まれる」1040冊目

Web媒体に連載中、夢中になって次回を待ちながら読んだのですが、まとまった感想を書くのは難しく、単行本を待って再読しました。

「月の満ち欠け」でとうとう直木賞をとったわけですが、今まで愛読してきた佐藤正午となんとなく”手触り”?が違うようでちょっと戸惑いました。そして続くこの本。こちらも、超現実的なものが全体を覆っていて、少し戸惑いはしたんだけど、読んでいる私の気持ちはたとえば「身の上話」や「鳩の撃退法」を読んでいたときの気持ちに近い、トイレに行く間も惜しんで次へ、次へ、と急ぐ、あの感じがありました。

改めて思い返してみると、昔から彼の作品には、すごく隠れた形で超常的なものが流れていたのかもしれない。そういうものが目立つ形で現れるのはたとえば村上春樹で、この人の作品の中で人間関係はとても狭く閉じているので、不思議なことについて公衆から責められたり噂されたりする場面は少ない印象です。でも佐藤正午作品は、すごく普通の地方社会で繰り広げられるので、ちょっと外れたことをしている主人公まわりの人たちは、大衆からのやんわりとした攻撃にいつもさらされています。その軋轢は常に主人公まわりの人々を傷つけています。

この作品「冬に子供が生まれる」では、その「主人公たちが巻き込まれる不思議なこと」が即実的な犯罪ではなく超常的な何かだったら、当事者たちは何を考えどう行動するのか?というように、テーマを少し斜めにしただけのいつもの佐藤正午作品なんだ、というふうに感じています。

そのおかげで、この作品は「月の満ち欠け」と今までの他の作品とをつないでくれて、やっと佐藤正午の作品の流れというか、広がりが納得できたように思います。佐藤正午が、丁寧に丁寧に、超常現象の当事者となってしまった子どもたちや周囲の大人たちの数十年間を描くとどうなるか。(一人の読者がどれほど納得しようがどうしようが、わりとどうでもいいことかもしれないけど)

読み終わって、なにか深いしずかな感動があります。人間が生きて死ぬこと、愛したり失くしたりすることの美しさと悲しさに、思いを馳せてしまうんですよね。こういう感覚は昔の作品にはなかった。もっと遠くへ、もっと遠くへ、と、目に見えないどこかに何かを求めていく感じが強かったです。

・・・これは、もう一度「月の満ち欠け」を読み直してみなければ。そしてまた感想を書きます!

 

ジム・ロジャーズ「2030年お金の世界地図」1039冊目

世界を自分の足で歩いて(または自分のバイクで走って)実態をよく見たうえで投資する、旅する投資家ジム・ロジャーズ。私も計算より実態観察にもとづいて大事な判断をしたいほうなので、この人の書いたものは定点観測的に読み続けています。

この新刊では、もう「コロナ後」という言葉はほとんど使われず、ロシアとウクライナイスラエルパレスチナ、中国と台湾(とアメリカ)の現状を観察して将来を予測しています。BRICSより中国、サウジアラビアルワンダウズベキスタンベトナム、コロンビアに注目。

以前、ビジネススクールに類する学校に通ってたとき、日本のいろんな有名企業の社員が学生として来ていて、彼らを見ていると、所属企業が上り坂なのか下り坂なのか、公明正大な会社なのか逆なのか、などなど、難しい数字を読むことなくかなり明確な企業分析ができる気がしていました。どの会社に就職するかなんてくじ引きみたいなものなんだけど、そこに長くいて、その会社の経営層の顔色を見て、指示に従っていることで、否が応でもその企業のカラーを体現している部分って出てきます。(※一部の社員が不正をやったとしても他の社員に影響することはないです、そういうものは会社の文化ではないので共有されない。だから不買運動には私はだいたい反対)

この本を読みながら、日本語学校の生徒の顏を思い浮かべて納得する部分もありました。サウジアラビアルワンダ、コロンビアの生徒はいなかったのでわからないけど、多数を占める中国の学生には、優秀で協力的で性格も温厚な人が多くて、ひとことで言うと「豊かな国から来た余裕のある人たち」という印象。ウズベキスタンから来た学生は、漢字でみんな苦労しているけど、思いのほか数が多くて、こちらもやはり穏やかで素直な人がたくさんいました。ベトナムから日本に来て働いている人たちは、丁寧で優しくて努力家が多い。難しい日本語をどんどんマスターしていて、逆にベトナム語は難しくて挨拶すら覚えられない私から見て、この国が伸びないはずはないと思わせる人たちです。・・・・という風に、こんな狭い行動範囲でも、外から来るものを受け入れて一緒に長く過ごしていれば、実地調査の足もとには及ばないけど、見えてくるものが少しはあります。

この本を読んで個人的に困ったなぁと思うのは、「日本暴落」は何年も前から読んで知っているから覚悟してるけど、アメリカが本当にダメになってしまったら、私達のようなスキルのないプチ投資家はどうすればいいのか、ということ。ウズベキスタン株やコロンビア株なんて自力で選んで買えないし、買い方もわからない。しょうがないから、守りに入ってひたすら金を買い続けるべきなのか。楽天証券とかSBI証券がそういう国の株も扱ってくれないかな。(それでも選べないけど)

長生きリスクに備えるのって、ほんと面倒・・・。

 

ブレイディみかこ「オンガクハ セイジデアル」1038冊目

この人の本は、新刊を見つけるたびに読んでます。モリッシーについて書いた本を読んだときは、彼の政治や社会に対する姿勢を自分はなんにも知らなかったことを思い知りました。この本にも何度か彼は出てくるんだけど、こうやって横断的に書かれたものを読み続けていると、やっと「なるほど」と腹におちる部分が多くなってくる気がします。ジョン・ライドンがそれほどクレバーなアイデアを持った力のあるアーティストだなんて、当時はまったく全然考えたこともなかった。でも、当時のふわふわした自分にも育ってきた背景があり、その後の数十年で少しは世界を見るようになったことを考えれば、どんなポップ(あるいはパンク)アイコンにも、実体験に基づく深い洞察や強い意見があって当たり前だし、人を圧倒する存在感を持っていたから一世を風靡したわけです。

それに、この人が書いた小説では、自分に自信のない女性たちが立ち上がって活動を始めることを促しているように感じたんだけど、そういうものを書きたかったこの人の背景が少し、この本を読んでいるとまたわかってくるようです。

海外に行くと日本人は強くなるのかな、とくに女性は。全部の外国ではないけど、叩かれても強くいつづけようとする女性のお手本が身近にある国なら。

 

又吉直樹・ヨシタケシンスケ「その本は」1037冊目

面白い。あの又吉直樹とあのヨシタケシンスケがコラボしてる。二人とも、じわっ、クスシ、しみじみ、とくる可笑しみのある作家で、それにあの、なんともいとおしいイラストがついて、とても立派に装丁されている。中身は「その本は」で始まる、本をめぐるユニークな発想集で、なかには切ない短編小説も。星新一ショートショート、のようなどんでん返しはあまりないけど、ほっこりとしつつ、知的好奇心を刺激してくれる本。

この本のタイトルは「その本」じゃなくて「その本は」なんだ。この違いはけっこう大きい。「その本は」のほうが中身に正直だけど、「その本」のほうがちょっと謎めいている。

どうやってこの本を作るに至ったか(どの編集者あるいは著者の一人あるいは二人がどんな風に思いついたか)、二人でどうやって作ったか、作ってみた感想、などがすごく知りたいけど、そういうのは一切載ってません。ネットにインタビューとかありそうだけど、今回はそういうのも見ないままにしておこう。

いろんな読書のこころみって、面白いよね。

 

「須賀敦子の手紙」1036冊目

これは、最近読み漁っている須賀敦子関連書籍のうち、彼女が親しい友人夫婦に宛てて書いた個人的な手紙を集めたもの。エアメールの表書き、裏面の筆跡も含めて、なにもかもさらしています。

名前くらいしか知らない人の自宅を、いきなり覗き見しているような気分。ご本人が知ったら、顔を真っ赤にして怒って、この手紙を公開させた「おすまさん」(手紙の宛先)に長々とお説教をしたんじゃないだろうか。読んだ私も同罪かもしれません。

この本の中の須賀敦子は、才気豊かで感受性が強く、ちょっと短気でたぐいまれな知性を持つ女性です。きっと目のキラキラした、早口の、すごく魅力的な女性だったんだろう。話がべらぼうに面白くて、愛嬌があって、料理が上手で、一緒にいると最高に素敵な気分になれる女性。「おすまさん」は、写真もないけど、きっと自然が好きで優しくて温かい、のんびりとした”山ガール”のような感じの人じゃないかなぁ。

この手紙の山から見えてくる須賀敦子は、こんな下書きもない万年筆書きの手紙でも、感覚がするどくて表現も独特で、わかりやすく親しみやすい。むしろ、一般庶民はこのままの文章を読みたい、いやもっと言うと、この人がテレビでこんな話をしてくれたら国民的な人気者になったかもしれない、とさえ思います。そんな人があえて、出版されたエッセイを見ると、抑制に抑制を重ねた、完成度の高い文章です。まるで、おてんば少女が厳しい父親に正座させられているような文章。父親なきあとも、彼女の中には厳格な父親が住み続けていたのかな。

今って、おてんば少女がそのまま言いたいことをブログやYouTubeで垂れ流し続けている時代だと思う。(私もそうだ、ほとんど推敲はおろか誤字脱字チェックもしてない)才能のある人の文章を読むのは、話し言葉のようなものでも、抑制しきったストイックな形でも、どちらも好きです。でも世の中が自由に寄りすぎていることのバランスをとるように、抑制の美しさも再評価されたりしないのかな。それともエントロピーは増大し続けるので、文章表現はダイバーシティ(広い意味で)をさらに広げていくしかないのかな。私自身は、完成度の高い文章をもっと読みたいと今思ってますけどね・・・。

大竹昭子「須賀敦子の旅路」1035冊目

やっとここまできた。

「1万円選書」に当たってこの本が送られてきたのが2022年の1月。2年も寝かせてしまったのは、軌跡を訪ね歩くと言われても、そもそも須賀敦子を知らない。知らない人の軌跡を訪ねる本を読むなんて、ヒントなしに暗号を解こうとするようで、手探りでも進めないような居心地の悪いもの。

いったい誰なんだ。と調べてみて、最初に手にしたのが「須賀敦子の本棚」というシリーズのダンテ「神曲」。ハードルが高いうえ、須賀敦子の翻訳でもない。ますます混乱して、もうちょっと調べてみたら、エッセイでいくつも受賞した人だとわかったので、初心者向けの「須賀敦子エッセンス」というエッセイ集1・2を読んで、やっと何者で、どういうものを書いた人なのかわかってきました。じっくりと読み応えのある文章で、エッセイなのに読者を本の世界に連れていってしまうようなすごい読後感もあります。

文体はやわらかいのにどこか男みたいな硬質なところもあり、どんな人が書いたのかが想像できず、いつまでも気になってしまう。・・・という状態で、やっとこの本を読み終えたところです。

彼女の軌跡をたどりたいと思った人、知りたいと思った人たちの気持ちが、今ならすごくよくわかる。あんな文章を書く人の素顔はどんな人なのか。

若い頃は、どんな人も節制努力すれば、何不自由なく長寿を全うすることができると思ってたけど、今は、天から与えられるものは偏っていて、何らかの不幸や不運を避けられない人もいると思っています。若い頃と違って、不幸を背負ったままでも生きていけるし、それもまた一つの悪くない人生だと思える。須賀敦子は大きな空洞のようなものを抱えて強く生きた人だと思う。書いたものの完成度の高さとは対照的にも思える、実際の人間関係のバランスの悪さも見えてきて、ふしぎと、ますます自分の心が強くなるような気がします。人間ってすごいな、ほんとに。

60歳を目前にした私のプロフィールを見て、この、知らない人に関する知らない人による紀行本を選んでくれた「一万円選書」選者の思いにため息が出ます。この年齢にしてまだ自分のやるべきことが固まらない私でも、今まで失敗ばかりしてきた私でも、生きてるかぎり自分の道を探し続けていてもいいんだ。

私も、会うこともない誰かや、通りすがるだけの誰かに、こんな励ましのできる人になりたいと思います。ただただ感謝。