室橋裕和「ルポ新大久保~移民最前線都市を歩く~」865冊目

新大久保、先日もベトナム料理を食べてきました。行くたびに、どの店で何を食べたらいいか悩む。が多すぎて苦手って思ってたけど、いつの間にか気軽に行ける町になってた。一時期「ギー」を買いにイスラム横丁に通ってたのと、大久保図書館をたまに使うようになったからかな。なんとなく行くと圧倒されるけど、用事があるときに行くとエネルギッシュで刺激される、不思議な町。

この本はすごくよかった。あまりにも掴みどころがなくて、迷いがちな町を少し解き明かしてくれた感じ。今日も行ってみようかな。ネパールカレー食べてこようかな。3年近く海外旅行に行ってないけど、近くにある異郷をまた訪ねてみよう・・・。

(この本が出た2020年から店はかなり入れ替わってます!)

 

筒井康隆「残像に口紅を」864冊目

いいなぁ筒井康隆。年とったら、映画「ハロルドとモード」のモード婆さんのようになりたいと思ってる私ですが、男だったら筒井康隆もいいなぁ。誰の言うこともきかず、面白いことをやり続けたいもんです。

この小説も大笑いしながら読みました。表現から徐々に”やまとことば”が減って漢語や擬態語ばかりになっていく。漢語って、使われてる音数が少ないんだろうか、あるいは少ない音数で構成される同音異義語が多いからこうなるんだろうか。おかしいな、とは思うけど、全部の言葉の意味がわからないながらも、なんとなくちゃんとストーリーが進んでいくようなので、書いてる方の苦労を気にせず、おやつでも食べながら楽しく読み進めてしまいました。そこまでで終わらず、うまく語を繰り出せない市井の人々も登場して、ちゃんと”俺ってすごいだろ”示威を行わずにいられないのは、この小説にして初めて触れられたという著者(佐治)の強烈な両親の影響もあるんだろうか・・・。

文学史において誰かが一度しかやれない(二度目をやってもいいけど相当勇気要るぞ)実験をまたやってくれて、やっぱり筒井康隆は面白いのでした。1989年ってもう33年も前だけど、この人の作品史をたどるのは、今からでも遅くない。

ところで、見覚えのある表紙の男性の表情、やっぱり船越桂だった。平面でも同じ表情。でもなんでこの絵が表紙なんだろう。実態を失いつつある世界のはかなさを表現してるのかな。

 

今村翔吾「塞王の楯」863冊目

これは面白かった!すごいですね、この作家。城壁が複雑な職人技で作られていることは知ってたけど、その世界をここまでふくらませて構築するとは。大変読み応えあり、先を急いで読んでしまうエンタメ性もあります。変な比較だけど、最近の中国SFの強豪たち、ケン・リュウとか劉慈欣とかがオリジナルの世界を繰り広げる力量に匹敵するくらいの説得力がありました。この人時代ものしか書かないのかなぁ。近未来SFとかも読んでみたいな。

登場人物の、過去からの積み重ねを経た人物像がしっかり重みを持っていて、どこまでが史実なんだろう?と不思議に思う。ググってみたら、武将たちや戦の成り行きはほぼすべて史実みたいですね。城壁作りと鉄砲屋の当時の実態も、可能な限り調査したんだろうな。その上で、2つの陣営のパーソナリティや出来事は全部フィクションだ。最初から最後まで、なるほど!そうきたか!と驚きつつ納得する戦略のかずかず。締めくくりもきれいで、甘ったるい情緒に流れずぴしっと決まりました。この作品の直木賞は、きっと意見が分かれなかったんじゃないかなー(想像)。

立体で見てみたいけど、映画一本では物足りない。「塞王」を主役に、大河ドラマ作ってくれないかな?というスケールの大きさでした。拍手喝采

 

 

桜庭一樹「少女を埋める」862冊目

小説には、事実関係や登場人物たちの気持ちをくっきり明確に描くものと、ぼかして描くものがある。「少女を埋める」は自伝的小説なので主人公から見た事実と彼女自身の気持ちは明確だけど、それ以外の人たちは他人として描かれるので事実関係も気持ちも明らかではない。

主人公の母が父を長い間介護してきた時間が幸せだったことと、その父に「虐めてごめん」と話しかけたことは事実として書かれてるので、「虐めた」のは父が病気になる前のことかな、そうは言っても女は弱い立場だったとも母は話してるので、母自身が抑圧を感じたときなどに父に強い言葉で対抗したことでもあったんだろうか、と想像した。

それにしても事実関係がわかりにくい、想像しにくい小説だった。わざとぼかしてる部分もあるんじゃないかな?あるいは、主人公は母のことを完全には理解できないので、そもそも不明が不明のまま書かれていたのか。でも不明だらけの小説は、ファンタジーなら面白いかもしれないけど、あまり曖昧なことが多いと共感しづらくなると思う。

こんなことを私ごときがブログに書くときも、今は小説家本人やご家族が読むことを想定して配慮すべきなんだろうか。それとも、「王様の耳はロバの耳ー!」と叫ぶための秘密の井戸の側面もあると思っていいんだろうか。今は多分後者なんだろうね。

「キメラ」に書かれた、ときに過剰なんじゃないかと思う著者の心配は、自分なら大いにありうると思う。メールを書いた後に書かなきゃよかったんじゃないかと心配になって眠れなくなったりする。(次元が違うけど)だから私は書くことが好きなのに、プロの書き手になるのは怖い。

評論家のほうの感覚は、ワイドショーのレポーターみたいだな、という気がする。言われなかったことを、自分が生きてきた中で身についた感覚をもって補って、言われたことであるかのように解釈するのが普通になってる。多言語で書かれたものなら解釈を誤ることもあるだろうけど、日本語だから正しく解釈できると思ったのかな。ネットには誤読があふれてる。

あと、人が誤るのは普通のことで、失敗を指摘されたら素直に謝るのがベストなんだけど、不景気だからか不寛容さが世の中にあふれてる。イントレランスだ。著者は自分に厳しく、人に対しては厳しくしないけどすごく神経が鋭敏で感受性が繊細なように見える。ほんもののお母様のことを考えてご本人が一番傷ついてるような。

批評を書いた人も、自分の読み方を否定されることが心の傷になるような、これまでの積み重ねがあったのかな。

こういう議論が紙の上やネットの上で起こるんじゃなくて、人についての造詣の深い司会者がうまくとりなしてくれるトーク番組で行われたんだったらよかったのにね。

 

ケニルワージー・ウィスプ(J.K.ローリング)「クィディッチ今昔」861冊目

ちょっと調べものをした関連で、こんな本があることを知って、読んでみました。伝統的なスポーツの本として普通に面白かった。世界をひとつ、ふたつ、ゼロから創造してきたんだもんな、ローリングさんは。世界中の老若男女がすっと受け入れて共感して感動できる世界。規模が小さければ「妄想」と言われるものが、ここまで発展すると世界中を楽しませて、作者を大富豪にする。

たくさんあるチームのエンブレムや歴史をひとつひとつ紹介した章なんて、いかにもありそうなエピソードばかりで大好きです。ハリポタの世界の中では実に小さな、脇役的な部分だけど、神は細部に宿るんだよな・・・。

原作は、一番最初の「賢者の石」の原書の最初の数ページで挫折して以来(人の名前が難しかったの。ハーマイオニーとかダンブルドアとか)、一度も読もうとしたことがなかったけど、本って形にはロマンがある。いつかまた読んでみようかな。(日本語で)

 

朝倉かすみ「平場の月」860冊目

ふしぎな味わいの本だと思った。

舞台は埼玉の中くらいの大きさの町、登場人物は印刷会社の男と病院の売店でパート勤務している女。お金がないから、と言って、女の家で家飲みをする。外食するときも駅前の焼き鳥屋。なんだか侘しい。読んでる自分と似たような生活だけど、ノンフィクションとかじゃなくて小説として読むには、夢がなさすぎる。バラ色の結末を期待できない。

でも、これは侘しさを想起させるための小説じゃなくて、むしろ、本格的恋愛小説で、よくよく考えるとまるで実現しないようなファンタジーにも思えてくる。そこでやっぱりまだふしぎなのは、徹頭徹尾、感情を排してるところなんだな。詠む者が号泣して優しくなれるタイプの小説なのに、登場人物は泣かないどころか、悲しかったり切なかったりする素振りもあまり見せない。忍耐の美学、統制下にある感情は漏れ出してもこない。読みたい行間からぼろぼろこぼれ落ちてこない。だけどこれは典型的な「泣くための小説」だとも感じる。

冒頭で死をネタバレされる女性「須藤」と、元同級生の男「青砥」の恋愛は一見しみじみとしながらも、学生時代じつはそれぞれ片思いしていたり、須藤が何が何でも孤高に生き抜こうとする一方で青砥は”母親のようにやさしく”、彼女に去られても思い続ける というロマンチックな純愛物語なのだ。愛されたいけど媚びたくないと思いながら一人でいる女性が、青砥のような男性に追いかけられながら振り切っていけたら最高に幸せだけど、青砥のほうは置いてけぼりのままだ。これは、須藤のように生きて青砥のような男に愛されたい女性のためのファンタジーだったのかな、と読み終わってから思う。この結末を「恋愛の成就」と見る人もいるのかもしれないけど、すれ違い合っていて嚙み合うことを避けた”ねじれ”のように感じる。カタルシスを与えないという新しい選択肢の実験みたい。

日の名残り」と共通点もあるけど読後感が違う。”愛し合いたいけど、愛憎のドロドロに巻き込まれたくない”という意思が巨石みたいに立ちはだかっていて、愛が二の次になっている。映画化されるときは、青砥は小説よりよく泣く男として描かれるんじゃないかな、という気がする。

戦争で、半年暮らしただけの夫を失って、その後一生独身を通した女性の純愛や孤高の精神を、現代に再現するためにあえて愛されることを拒否した、みたいな感じ。

でも、誰かと愛し合う状況に陥って、動揺したあげくまた失敗すること自体を恐れて、誰にも近づかない人のほうがもっと不自然に禁欲的なのかもね。

それにしても、魅力的な人物像の造形や、どんどん先を読ませる筆力はすごいものでした。

ピーター・ボグダノビッチ「映画監督に著作権はない フリッツ・ラング」859冊目

この挑戦的な邦題。原題がこの本のどこにも書かれてないのであちこちググった結果、「Fritz Lang in America」という、当たり前すぎるタイトルで拍子抜けしました。でもこっちのほうが聞き手の、普通のアメリカを情緒豊かに描くピーター・ボグダノビッチらしい。

私いま映像著作権の仕事をしてるので、フリッツ・ラングじゃなくてもこのタイトルが気になってしまうんだけど、ラング監督が1本1本自作を語るこの本のどこに、著作権の話が出てくるんだろう。・・・あった。「人間の欲望」の章で、自分が「暗黒街の弾痕」のために撮った場面がそのままマックス・セノック監督の「犯罪王デリンジャー」という作品の中で使いまわされ、「西部魂」の場面がウィリアム・ウェルマン監督の「西部の王者」で使われているとのこと。これはひどいなぁ。後世の作家が自分のアイデアをパクることについては、「口紅殺人事件」の章で「人が盗もうと私は気にしない、私もこれまでたくさん盗んだしね。それに私はそれを盗みとは呼ばない。」とむしろパクられることを誇りに思っているとのこと。

ラング監督大好きなのでまあまあ見てるけど、私が集中的に映画を見るようになった10数年前は、DVDにならなかった作品は図書館のレーザーディスクで探す、というような残念な時代だったので、ここ数年VODにどんどん降りてきてるのがありがたい。まだ見てなかったものはVODで見ながら、この本を順々に読んでいきたいと思います。あー、なんか映画的至福の時間だなぁ・・・。・・・と思ったけど、未見の作品で簡単にVODで見られるものは多くないしDVDレンタルしているものも少なくて、結局見られないものがかなり残ってしまった。著作権切れのものもけっこうあるはずなので、そのうちYouTubeとかで探してみようかな。

それにしても、ハリウッドでの監督の苦労は大変なものだったようです。スパークス(「アネット」で急に映画界に出てきた)が少し前に、ベルイマン監督がハリウッドに拉致されて逃げ出すというミュージカルを作ったとき、映画を見始めたばかりの私にはなにも共感できなかったけど、今なら少しは理解できるかなと思います。