ルチル・シャルマ「シャルマの未来予測ーこれから成長する国 沈む国ー」1063冊目

多分テレビのドキュメンタリー番組とかで見たんだろうな。現役の投資専門家による、注目の世界各国に関するとても明晰な観測記録+予測です。570ページもあるし、8年前、コロナ禍以前に書かれた本だし、今のところ各国の個別株を自分で買って回る予定もないので、ななめよみだけさせていただきました。でも、キラキラしたBRICSやらなんやらというキーワードに踊らされることがどんなに盲目的か、一刀両断してくれていて、それだけでもよかったです。

思うに、人ってあらゆる演出に弱くて、基本的に、上手に組み立てられたものにはだまされるものだと思ったほうがいいと思う。少なくとも、自分以外の人の意見を聞くときには、相手も相当のバイアスがかかっている、という認識で聞く必要がある。外れたら相手を批判するとか、だまされたといって怒るとか、してもしなくても事態は変わらない。それが人間の「普通」だから。

その上で、自分のわずかな財産をどうやって減らさないようにするか、少しでも増やすか、判断が必要なとき、この著者はこんなに分厚い本を書いておきながら、結局自分でそこに行ってみることだと書いている。そこが信用できる。バイクで道なき道を行くジム・ロジャースにも通じる。誰がどんなウソを流そうと、どんなイメージ戦略をしようと、その国のふつうの人たちと話してみるとか、園の会社の一般社員の顔色を観察するとか、虚構にあらわれない部分をどれくらい感知できるか、は大事だと思ってる。

もうちょっと他にも読んでみたいけど、次は半分くらいの厚さの本がいいな・・・ないかな・・・

 

磯部涼「ルポ川崎」1062冊目

先日なにかのバラエティ番組を見てたら、この本で取り上げてる「BAD HOP」というラップグループの人たちが出ていて、川崎出身のやんちゃたちがラップで初めての東京ドーム公演を行った!そして解散!という話に驚いて、彼らのことをもっと知りたいと思ったので探したらこんな本があったので読んでみました。

ダメな親の子どもは、ある種の諦念を幼いうちから身に着けて、早く大人になる。にしても彼らのサイクルは早いな、中卒でラップ初めてデビューして徐々に売れてドーム、解散、でまだ28とか29だ。でも事実であっても「壮絶な生い立ち」が枕詞か屋号みたいに張り付いた形であれこれ取りざたされるのって、私だったら不快で耐えられなくなると思う。マスコミと距離を置かずに堂々と出て来る彼らはなんだかまっすぐで強く見えます。

この本を読むと、彼らのいる街角の景色が見えてくるような感じ。めちゃくちゃ殺伐としてるけど、下世話に温かい。で、彼らはすごく見た目や言動もラップもそうとうカッコいい。彼らが生まれ育った町まで魅力的なんじゃないかと勘違いしそうなくらい。そういう役割を自ら背負って立ってるから、中傷やイメージの消費にも耐えて強いのかな。

上京以来ずっと武蔵野多摩地域にいる私は、川崎という土地とはあまり縁がなくて、仕事の打ち合わせで工場に行ったことがあるくらいだけど、物見遊山の極み「夜の工場見学ツアー」に行ったことならある。真っ暗闇のなかで、赤い煙をあげつづける工場群は、生きて何かを生み出しているという感じで美しかった。

生きて、何かを生み出す。「壮絶な生い立ち」を背負った彼らはふしぎと、むしろ、まっさらで、何ものにもとらわれずに自由でいるように見えた。

私はこれからもラップを熱心に聞くことはないと思うけど、この本に出てくるいろんな人たちが生きて何かを生み出し続けることを応援したいな。と思います。

 

村田喜代子「新古事記」1061冊目

とても軽い気持ちで選んだ本だけど、第二次大戦中のニューメキシコ州、物理科学者の夫は家族にも言えない任務を帯びていて、その彼女は日系3世、オッペンハイマー氏やファインマン氏も登場するし。…ドキドキ、不穏な気持ち…。

でも村田喜代子の小説なので、主人公はあくまでもマイペース、常にほぼ平常心でその町の生活を送っています。彼女の主な関心事は、自分が働いている動物病院に来る犬たちの状態をつぶさに観察することや、祖母が遺した謎の日本人祖父に関するメモを古文書のように読みふけること。祖父が日本出身であることは戸籍に記載がなく、彼女は正真正銘のアメリカ人であり、アメリカの勝利を喜びつつ、はるか彼方の祖父の故郷の戦禍をぼんやりと遠いこととして聞いている。

彼女がその地に持ち込んだ祖父のメモが見つかったり、うっかり祖父のことを人前でしゃべってしまったりしたら、日本人収容所に送られるんじゃないか、などとヒヤヒヤしているのは読者だけか。

オッペンハイマーファインマンも人道的ないい人たちで、逆に日本でも原爆の開発が行われていたという記述も出てくる。

日本が開発に成功していたらこの世界はどうなっていたのか。人類全体を俯瞰すれば、誰が今勝っていて誰が今負けているかより、全滅せず誰かが生き残ることのほうが大事なのかもしれない。若い夫婦も犬たちも、競うように妊娠して子どもを産んでいくこの不思議な町。悲しみや怒りに圧倒されていると見えてこない風景なんだろうな、と思います。

やっぱりオッペンハイマー早く見なきゃ…。

 

レーモン・クノー「文体練習」1060冊目

これも「あの本、読みました?」から。アメリカ文学翻訳者の柴田元幸が推したのが、この本。ひとつのささいな出来事を99もの文体?で書き分けた、フランスの”奇書”の和訳です。これほどの珍妙な原作の和訳と思えないほど自然で面白みの多い文章で、なるほど、手練れの翻訳者が愛読するのも納得です。

翻訳者ってほんとすごい。学生のころ文学翻訳のクラスを受講したけど、ろくな成績がとれなくて、原文の理解が乏しいことを痛感したものでした。言語能力以上に、筆者の意図をくみとる読み方ができなければならない…いや、言語や語彙の理解が卓越していなければ、筆者のことば選びの意図をくみとることなんかできないのかもしれない。

つまり、英語の勉強を始めてからもう50年近くたつけど、英文学は原文より和訳で読んだ方が私には理解できる。がっかり。

でも多分、用事を済ませるための道具としての言語は、私にも身につけられる。それと、深く理解したり味わったりすることは、別に考えてもいいのかもな…。(つまりN1に合格しなくてもいいんだよ、と生徒たちに言いたい)

ポール・オースター「闇の中の男」1059冊目

<結末にふれています>

これも「あの本、読みました?」から。新刊書ってたくさんありすぎて…。若いころは、好きな2,3人の作家か、たまたま図書館に入荷したばかりの、まだ人気がそれほどない若い作家の作品を読んでました。今は新刊書も買えるし図書館の予約システムが便利になって、山のように新刊書や人気書を読んでる、だけど全く追い付かない。これだけ読んでれば、やがて遅れを取り戻せるんじゃないかと思ったけど、ずっと足踏みしてるみたい。そして逆に、図書館で新入荷の翻訳書をぶらぶら見繕うことをしなくなった。ミステリーなら「このミス」とかで新しい作家と出会えるけど、文芸書の場合、ノーベル賞を受賞してくれても全部は読めない、という有様。だからあの番組は今私のすごく有用な読書リソースとなっています。

この作品は、ものすごく端的にいってしまうと、アメリカの作家が911という事件を受けて書いた作品の一つ。そのジャンルでいうと私はジョナサン・サフラン・フォア「ものすごくうるさくて、ありえないほど近い」しか読んでないけど、共通する深いかなしみを感じました。韓国の人の作るもの(本はあまり読んでないので映画とか)にもよく、通奏低音のようなかなしみ、あきらめ(それをハンと呼ぶんだろうか)を感じるけど、それとも少し違う、しっかりとした核をもちつつ、反戦作家のかなしみは、反撃に向かわず立ち止まっている。

作品の中の老作家は歩くこともままならず、家の中で孫娘と眠れない夜を過ごしている。夜な夜な夢想する彼の物語の中では、911の起こらなかったパラレルアメリカで、ある日突然、青年が暗殺の任を受ける。…その”劇中劇”というか”作中作”の暗殺ターゲットは実は老作家自身で、そんな夢想をする彼の事情は最後の最後にやっと明かされる。彼と孫娘が共有しているトラウマ、痛み、悲しみの理由は、ある青年を戦地に行かせてしまった、止められなかったことだった。彼がその後どんな形で命を落としたかまではここには書きません。

戦争とかテロリズムは大きすぎて、「把握した!」と思うのは難しいけど、その国のひとつの家庭のなかで何が壊れたか、壊れたままどうやって暮らしているか、を描くことで、普遍的なものが見えてくることもあるんだと思う。そうだろうな。悪夢を何日も何日も見続けるだろうな。苦しくて逃げられなくて、どんどん弱っていく一方で、ほんの少しずつ記憶が薄れていって、忘れてしまう自分をまた責めたりするんだ。そういうサイクルを何度も何度も、何年も何年も繰り返して、”その事件”がおとぎ話みたいに遠くなるまで持ちこたえられたら、その後はやっと少しずつ楽になっていく。

この作品は一番苦しい状態のまま終わる。読んでいる人は、ああそれは辛いなと思うのか、それとも、うんうんわかるよ、と共感するのか。もう甘ったるい夢で終わるような小説は読みたくない、と思ってる人向けの作品だけど、結末の甘さかげんなんて、買うときにはわからない。これを読むことで共感を得られる、犯罪被害者や家族もいると思う…なんらかのきっかけで目を止めることがあるといいなと思います。

 

恩田陸「夜明けの花園」1058冊目

面白かった。恩田陸のゴシック系のほうの作品。全寮制の学園が舞台で、ヨーロッパ系の美形の少年が何人も出てくるので、萩尾望都作品を小説で読んでるような錯覚にいっしゅん、陥ったりする。スパイや刺客や大富豪の御曹司が登場するし。

ミステリーに殺人事件はなくてもいい、と、つい先日「スープ屋しずく」の感想で書いたばかりだけど、こういう派手な仕立ての作品も娯楽作品らしい盛り上がりがあっていいもんです。

あ、これシリーズものの一部なんですね。それでか、作品中に、この本に含まれていない別の事件のことに言及した箇所があるのは。中心にいるのは理瀬か。日系人、でもなく日本人らしいけどどんな女性なんだろう。…おっと私このシリーズの別の作品も過去に読んでるわ。「三月は深き紅の淵を」と「薔薇の中の蛇」。ちょっと読む順番間違えた感があるので、機会があったら順番に読み直してみよう…。

 

佐藤ジョアナ玲子「ホープレス in ドナウ川」1057冊目

この人ほんとに面白い。去年読んで激賞した最初の本「ホームレス女子大生川を下る」に続いて、愉快だ、興味深い、考えさせられる、人生観にまで影響する、といった”面白い”ということばが意味しうるさまざまな感慨が全部この2冊目にも詰まっています。

しかし、アメリカ1国内をめぐるミシシッピ川下りでも心配だったけど、言葉もあまり通じない、政治も文化も人も食べ物も何も知らないヨーロッパ各国を川岸から回るのが、読んでて心配でしかたありません。実際のところは、都内の道を歩いていても、ぱっと見安全そうなSNSを眺めているだけでも、生命の危険はすぐそこまで迫ってるわけで、人生はgoing concernであり世界中どこにいても危険と感動に満ちているわけなので、みんな行きたいところに行ってやりたいことをやればいい、やるしかないんだよな。ずっと自宅にいたい人は、出たくない間はいつづければいい。

”ひきこもり”から”ジョアナ”までの1-10のスケールがあるとすると、私はジョアナ寄りの8.5あたりでしょうか。だからまた安定した仕事をひとつ辞めて、全然食えない仕事のほうにシフトしかかっている。外に開けた方に向かっている。世界中どこにいても、外の人とのコミュニケーションが大部分を占める仕事だ。年をとってくるとだんだん、今生のうちにあと何と何ができるかな?ということを考えるようになる。だからますます、今この瞬間にやりたいことの方にシフトしていく。

旅行ばっかりしてた頃は、”旅行が好きな人”と認識されることが多くて違和感があった。今は海外に行きたいとか地の果てを見たいという感覚はなくて、もうちょっとちゃんと人と向き合いたくなってる。アウトバウンドでありつつ、実際は来る人を迎えてる。方向性は外に向かってるように見えるかもしれないけど、もっと深めていきたいんだと思う。

頭で目標を決める前に自分の心をのぞきこむと、どっちに向かいたがっているか、何から離れたいか、おおざっぱな方向性が見える。これを外れるととても不幸な感じになってどんどん体調が悪くなるので、そこだけは譲歩してはいけない、がんばりどころなのだ。

私もがんばるから、みんながんばろうね。