末並俊司「マイホーム山谷」843冊目

読んでよかった。ずっとこの本を待ってました。

「きぼうのいえ」が話題に上るようになった頃、ちょうど私の父も認知症で入院してやがて亡くなって、無力感のせいか、私も「ホームヘルパー2級」を取ったのですが、そのときの講師に山谷で働く看護師の方がいて、彼女のなんだか聖母のようなたたずまいに惹かれて、私も山谷で働けないかと割と真剣に考えたりしました。山本さんの本も読んで、「きぼうのいえ」のウェブをその後もちょくちょく見たりしていたので、山本さんが退任したこと、その際ご本人が納得されていなかった様子だったことなど見聞きして、ずっと気になっていました。この本を読んでやっと見えなかったことが明らかになって、著者の末並さんの粘り強い取材に尊敬と感謝を表したいです。

他の団体でも、サポートしていた人がサポートされる側になった話を聞いたことがあります。人間ってずっと同じ状態ではいられない動物だから。社会も状況も変わるし。それでも、手を貸したいと思っている人っていなくならないから。山本さんのいう「愛」は地球上から絶対になくならないから。浮き沈みしながらも、あまり自分を責めないで、今できることをやっていけばいいんだと思います。

 

ガストン・ルルー「オペラ座の怪人」842冊目

オペラ座の怪人特集だ!

最近オペラやバレエを見る機会が多くて、それならミュージカルも見に行ってみよう、ミュージカルといえば劇団四季だ、私はいまだかつて一度も見たことがないので見に行こう、見たいのはオペラ座の怪人かCatsだな、ちょうど大阪に行く用事があるから、ついでに大阪四季劇場行ってみてこよう。ということで先週見てきました。

ところで私の大好きな映画に「ファントム・オブ・ザ・パラダイス」があります。これは「オペラ座の怪人」を原案としつつも、舞台を現代に置き換えてオペラ座ではなくロックシアター、音楽はポピュラーミュージック、という体裁で作ったブライアン・デ・パルマ監督作品です。私の頭のなかの怪人のイメージは、この映画が強い。つまりかなり歪んでいます。それと、劇団四季版とを思い出しながら読んだうえで、原作の感想を書いてみます。

原作はおどろおどろしいですね。怪奇小説です。やたらとあおってきます。クリスティーヌとラウルは少年少女のように無垢で感じやすい、映画黎明期のすぐ気絶するヒロインを思わせる造形。単に見た目に傷を負って生まれてきただけで、他に何も障害はなく才能豊かな怪人は、当時の価値観により「醜いゆえに性格がゆがんで悪の道に走る」という、現在のダイバーシティ的には共感しづらい造形です。すべての謎は、ファントムがかつてペルシャ人(国籍だけでほぼずっと語られるキャラクター!)と共に働いた職場で見につけた、舞台装置や隠し部屋の技術によるもの、と科学的に解決されます。(ムリムリな部分も多いけど)

登場人物はおおむね一致しているんだけど、若干の違いがあります。支配人グループの交代はほぼ原作と同じだし、マダム・ジリも同じ印象だけど、語り部であり怪人とそれ以外の世界をつなぐ重要なペルシャ人がほぼ劇団四季版には出てこなかったような。隠し部屋へのルートはクリスティーヌ自身がラウルを案内するし、ラウルはペルシャ人の力や知恵を借りずに怪人へと至ります。怪人の生い立ちは、このオペラ座内で生まれ育ったと言われていたように思います。

劇団四季版(というよりアンドリュー・ロイド・ウェーバー版というか)はオペラのリハーサルや上演野の面が原作より拡大されていて、舞台装置、衣装、圧倒的な歌唱など含めてミュージカルの重要な見せ場をいくつも構成しています。隠し部屋への道のりは大分はしょられてるけど、それでも湖や密室、大きな鍵など印象的な部分はしっかり残っています。・・・総合して、原作はそれほどビジュアル面の魅力を感じないけど、卓越した舞台全体の造形によって劇団四季版・ウェーバー版は視覚的スペクタクルになってますよね。

音楽的には、オペラがモチーフなので、オペラ的にクラシックの声楽のスタイルで歌うのかな。ミュージカルといってもたとえば「ウエストサイド・ストーリー」とか「ラ・ラ・ランド」とかは(当然)ポピュラーミュージックのスタイルで歌うわけですが、この作品そのものがオペラといってもいい形です。(そう考えると、新国立劇場の生オーケストラがちょっと恋しくなってしまうけど)

原作自体は、今の時代にはあまり読みやすいものではないと思ったけど、想像をかきたてる素材ですね。書かれたのは日本ではまだ明治時代の1909年。最近また銀座の歌舞伎座建て替えの呪いとかネットで騒いでる人がいるようだし、これを原案として「歌舞伎座の怨霊」か何か誰か書いてもらって、劇団四季でも宝塚(やるか?)でもいいので、上演してくれたらなぁ、などと思ったりします。

 

ニコルソン・ベイカー「フェルマータ」841冊目

やっぱりこの人はおもしろい、この人の書くものはおもしろい。

「VOX」は30年前に英語で読んだ記憶がうっすらあるだけで、何やらすごくイヤらしい小説だった気がしてる(なんでそんなもの読んだんだ)けど、この本を読んでいると、あれも別にイヤらしい小説ではなかったと思えてきます。

なぜかというと、この本では主人公の男性(妙に知能指数が高いのに派遣でテープ起こしの仕事をやっている)が、時間を止めて、自分だけが自由に動き回れるというSF的特殊能力を身に着けるのですが、やることと言ったら片っ端から女性を裸にして、眺める。ちょっと触れてみる。誰かの目の届くところに自作のエロ小説を置いてみる。・・・など、エロいんだけど知らなければ誰も傷つかないいたずらばかり。この著者の想像力というか妄想力は天地創造してしまいそうなくらい際限がなく、しかしその世界はかなり平和でちょっとエロいけどだいたいみんな楽天的で優しい。今思うと「VOX」もその程度のものだったのかもしれない。読んだときの年齢が今(中年)と違う(うら若い娘)ので、受け取り方がかなり違ってたのかな・・・。

ところで、この翻訳がまた素晴らしいですね。読みやすく、かなり正確に訳しているのに言葉選びのセンスがよくて、原著者のウィットまで伝わってきます。

今や図書館で予約すると私以外に誰も予約してない彼ですが、その後も面白い小説を書き続けてるんだろうか。日本語訳が出版される本なんて数少ないんだから、こういう場合はちゃんと原書を取り寄せて読まなきゃなぁ。

 

Valiant Japanese Language School「Super Real Japanese」840冊目

日本語教師の端くれとしてひそやかにデビューした私にとって、とても興味深いテーマ。というより、なんかすごく面白そうだな、という読者根性で読んでみました。

実際のところ、とてもまじめな日本語学習書でした。ウケ狙いの突飛なものはありません、少なくとも英語訳のほうは。

なかなか面白い表現も載ってるんですよ、例えば「ほくほく」は「soft and fluffy」、「キンキン(に冷えた)」は「ice-cold」、「(ラーメンの)バリカタで。」は「Extra hard noodles, please」、「とりあえず、生で」は「I'll have a draft beer to start with」、「あざとい」は「calculating」(計算高い?)、などなど。

でも「とりあえず生」には本当は、載っている英訳のようにきちんとした表現にはない、考えるの面倒だから適当に注文している”どうでもいい感”がある。英訳はすべて、まともな英語話者なら誰でも理解できる正しさがある分、日本語のスラング感はあたりまえだけどない。つまりこれは、本当に日本で今使われている日本語をちゃんと理解したい学習者向けの、とてもまじめな本なのです。日本の大学生を描いた映画の英語字幕じゃないのです。物見遊山な気持ちで読んでしまってごめんなさい。

私が教えてる人たちにこういう言葉の意味を聞かれる日がきたら、もういちど手に取って見てみたいと思います。

 

杉岡幸徳「世界寄食大全」839冊目

タイトルを見てすぐに読みたい!と思ってしましました。私が好きそうな本だよなぁ・・・。

でも少し勇気が必要です。到底、口に入れることを想像できないものがたくさん出てきます。残酷に感じてしまうもの、きもちわるくて無理と思うもの、まずそうでありえないと思うもの。読んだからと言って食べなければならないわけじゃないので、レストランのメニューとしてではなく、世界の文化図鑑を気楽に眺めるかんじで読めば非常におもしろく興味深いです。

美味しそう、食べてみたい、と思うものや、挑戦した経験のあるものもいくつか。「フグの卵巣」は食べたことがある気がするけど「なれずし」はまだない。サボテンはアリゾナで美味しく食べた、アブサンの代用品ペルノーはどこかのバーで飲んだ。バクラヴァは甘さ控えめで美味しいのもある(インドで食べたドーナツのシロップ漬けのほうが甘さキツイ)、あとは今は降参かな・・・

各種、獣の肉は機会があれば味見くらいはしてみたいかも。食べに行く勇気はない・・。

それにしても本当に面白い本でした!

 

うてつあきこ「つながり ゆるりと」838冊目

西新宿で毎週土曜日に食材配布や生活相談を行っている「もやい」の中に、彼らの支援を受けた経験を持つ方々を中心として温かいご飯やコーヒーを供する「サロン・ド・カフェこもれび」の成り立ちについて書かれた本。

今は「もやい」のオフィスは別のところにあるし、おそらくこの著者はもうその運営に携わっていないのではないかと思うけど、どういう思いや経緯で作られていったか、苦労や心労も含めて率直に書かれていました。

「場」を作るのって本当に難しい。誰もが、自分が出かけて行ける居場所を必要としているけど、求める場は人によって微妙に違うので、少しでも多くの人たちが”ここは自分の場所だ”と思える場所を作って、しかも維持するのは困難を極めます。来る人達は、運営側もお客さん側も、世代交代があるし、コロナや景気の変動など、そこを取り巻く環境も変わります。

今はこの本が書かれた2009年から14年も経った2023年で、生活困窮者の激増への対応が、さまざまな団体の喫緊の課題となっていると思います。ひとつの団体があらゆる問題を解決するのは難しいとも思う。

それでも、ご飯には今は困ってないけど、家族はないし友達よりヒマな私には、たまに他愛ないおしゃべりができる「居場所」は大切。仕事場でも、商業的な施設でもないどこか。そんな私にとっても、居場所を保ち続けてくれる団体はとても大切なのです。

 

ブレイディみかこ「いまモリッシーを聴くということ」837冊目

モリッシーのスミス時代を1セクション、ソロになってからを2つに分けて、合計3セクションの中で特筆すべき楽曲と、その楽曲の作られた頃のUKの様子を詳細に振り返る本。一人のミュージシャンをテーマに本を一冊書くくらい、多分著者はモリッシーのいわゆる大ファンなんじゃないかと思うけど、絶対に自分が愛していることは気取られないように抑えて抑えて書いた?と疑ってしまうくらい、客観的な視点を保つためにものすごく注意を払った文章という気がします。

モリッシーは、大学~社会人にかけてやっていたバンドの子たちが好きで、レコードやテープを貸してもらって聴いてた。それが1985~1989年あたり。就職したのがUKのお堅い会社で、仕事でロンドンに滞在していた1992年にフィンズベリー・パークで行われたマッドストックというフェスに行ったんだけど、これはほぼ同プログラムを2日連続でやるフェスで、私が行った2日目にはモリッシーが「前日になにか問題があったため出演しません」という張り紙がありました。その後、噂を聞きつけた音楽好きの人に質問攻めにあって初めて、モリッシーが相当のことをやらかしたらしい、と知ったくらいで・・・。惜しいことをしたような気もするけど、当時すでに私はモリッシーを聴かなくなっていたので、今からこの本のとおりに彼の軌跡を振り返ろうとがんばっても、歴史の本を読むみたいになっています。人生は短い、好きなものには今すぐ会いに行け、と思うようになったのはつい最近。この本はとても面白く、モリッシーにどんどん惹かれていったけど、もはや同時代の人間だなんて申し訳なくて名乗れない。

さようなら私の中のパンクス・・・かなぁ。