須賀敦子・文、酒井駒子・絵「こうちゃん」1034冊目

須賀敦子が書いた童話がある、それを絵本にしたものが日本で出版されている、というので調べて読んでみました。絵は私の大好きな酒井駒子です。

「こうちゃん」。「こうちゃん」って誰だろう。座敷わらしだけど室内より屋外によく出没する。神出鬼没で、人の子とも思えない。感受性が強くてときどき号泣する。でも、そこにこうちゃんがいると思うだけで、なんだか安心する、救われる。そんな不可思議な存在です。

須賀敦子にお子さんはいなかったと思う。読んだ感じ、これは持つことのなかった彼女の子どもというより、いたかもしれない彼女のちいさい兄弟のような感じ。幼くてあどけなくて、まだ現実と夢の区別がついていないような。

で、読んでるとなぜかちょっと切ないような気持ちになる。これを書いていた頃はまだペッピーノと結婚していなくて、多分すてきな恋をしていた頃のはずで、まだ彼女は大事な家族を亡くす痛みをリアルには経験してなかったはずなのに。

冒頭で「鉄のくさりをひきずって」いたはずのこうちゃんは、後の場面ではそれほどの荷物を持っていないように見えます。同じ人なのか、それとも子どもたちの総称なのか?

なんにしろ、須賀敦子の文章は(酒井駒子の絵も)読み終わったあとに不安が残る。その不安はでも少しあかるい、いい気持ちなんだ。人の作ったものがどう人の心に作用するかは、私にはとても説明できない・・・。

 

Max二宮「ふわっと速読で英語脳が目覚める!」1033冊目

この著者は、10年前から自分の経験や研究から独自の「英語速読」のセミナーを立ち上げていて、私もこの「英語速読」講座をちょっとだけ体験してみたことがあります。私の場合、英語はもちろん日本語の本を読むのもゆっくりな方で、以前はたくさん本を読む人間ではなかったんだけど、社会人大学院に通ったときにドSの教授が毎週膨大な課題を出すのに食いついていったおかげで、気が付いたら本を読むのが早くなっていました。だから、それが英文でも可能だということが感覚的に理解できます。

英語速読セミナー、始まる前と終わったあとで、実際、早く読めるようになったんですよ。ちょっとびっくりした。でも、体験しただけで続けなかったので、今でも英文は視線を文頭から文末まで動かしながら出ないと読めない・・・。日本語なら、目を行のまんなかあたりに置いたままどんどん読めるので、スピードは天と地ほど違います。まあ、この先英文を大量に読む機会はあまりなさそうだし、話すほうはいい加減だけど話せてるから、英語に関しては速読をこれから学ぶつもりはないです。

問題は、やっと本腰をあげて勉強しているスペイン語だ・・・。メカニズムは言語にかかわらず同じなので、私の場合はこの本を読んで、そのとおりに素材を集めて、スペイン語の本を読むべきなのだ。「はじめて学ぶ人」段階をようやく抜けて、「初級」の真ん中あたりへ進みたいところ。まだ語彙がぜんぜん足りないし、時制は理解できてない。最重要動詞の活用もまだデタラメ。この状態なら、スペイン語のこども用の本でも読んでみるべきかな・・・。

速読のポイントの一つは、大した意味のない「つなぎ」の言葉がどの言語もけっこう多いってことじゃないかな。そう考えると、一番無駄が少なそうな中国語はどうなんだろう。中国語にも「つなぎ」があるんだろうか。速読は可能なんだろうか。

日本語を学ぶ外国人のおとなには、日本語のどういう文章を読んでもらうのがいいんだろうか。童話よりは「やさしい日本語ニュース」のほうがいい気がするな・・・語彙は難しそうだけど。

語学学習は仕事上も生活上もずっと私には関係があるものなので、速読の取り入れ方はずっとチェックしていこうと思います。

 

湯川豊 編「須賀敦子エッセンス2 本、そして美しいもの」1032冊目

「エッセンス1」を読んだあと、ずっと頭のなかでこの人のことを考えていた。いったいどんな人だったんだろう。周囲の人たちから愛される可愛らしい女性だったと思うけど、自分を高くも低くも見ない、他者のことを書いてもあまり感情を出さない。独力でヨーロッパへ飛んで数カ所に定住し、家族まで持ったことの孤独を、声高に叫ぶこともない。

もしかしたらこの人は、ものすごく不幸な人だったのかもしれない、一生、誰にも見せられない絶望を隠し続けた人なのかもしれない、と思ったところで、この本を読んでみた。

こっちのほうが「エッセンス1」よりもっと、孤独や絶望が漂ってくる気がする。エッセイを書き始めたのはイタリアから日本に戻って何十年も後だけど、昨日のことみたいに、映像を見ながら書いてるみたいに詳細なのは、その頃の思い出にとらわれたまま、抜け出せずにその後も生き続けたからかもしれない。

須賀敦子に心を奪われて、彼女の軌跡をたどった人の本を読んだのが最初なんだけど、彼女自身がサバという、書店主でもあった詩人の軌跡をたどる章がある。急ぎの旅で手がかりをつかめるかどうか怪しい、本で読んだイメージに裏切られるかもしれない、不安な気持ちが読んでるわたしたちにも伝染する。誰かが誰かの本を読んで、書いた人の歩いた道をなぞる。その人の道をまた誰かがなぞる。でも次になぞる人はもう誰もいないかもしれない。憧れる気持ちは続いても、憧れられる気持ちは続きにくい。100年後の誰かに読まれようと思って、みんな本を書くわけでもない。たいがいの本が黄色くなって破れて捨てられて焼かれる、書いた人の遺体と同じように。

歳をとってから書き始めた人だからかもしれない、諦念というより、書くこと、読まれることに何も期待していない堅さがある。この人が20代に書いたものとか、何も残ってないんだろうか?意外なほど無邪気で希望にあふれたこの人の文章などあったら読んでみたい気もする。

いくら感想を書いても書ききれない気がする、ずっと何か特定できないものが残る。不思議な書き手だな、ほんとに・・・。

 

井上真偽「聖女の毒杯 ‐ その可能性はすでに考えた」1031冊目

ギラッギラにラメを漉き込んだ紙が表紙に使われていて、文字が読めん(笑)!

新しい若い作家さん、かと思って読んだら(私から見れば十分若くて新しいけど)2016年発行、ということはもう8年も前。著者は年齢性別不明とのことだけど、毒婦の表現がとてもリアルで細かいので女性かなぁと想像します。井上しんぎと書いてまぎ、か。荒野さんとか真偽さんとか、名前じゃないような名前の井上さんが何人もいるなぁ。

それはいいとして、中身ですが、とても面白かったです。したたかなのか間抜けなのかよくわからない大女フーリン、名探偵マイナス1みたいな青髪の探偵、コナンを卑屈にしたような子どもキャラ、等々、人物がどれも新鮮。トリックはともかく動機に感情がないし探偵の人間洞察が表層的なあたり、書いたのはアガサ・クリスティみたいな人を知り尽くした老女ではなくかなり若い人だなと思うけど、彼らがスクリーン上でガチャガチャと騒ぎを繰り広げるところを見てみたいなと思います。(とっくに映像化されてるらしい)

 

ミステリーアンソロジー「不在証明崩壊」1030冊目

忙しい時期に、「あーもう!」と一瞬仕事を投げ出して、電車の中やカフェのベンチで短時間で読めるこういう短篇集って、大好き。特にこれは最初の刊行が1996年、”イヤミス”という言葉がまだなく、弱者いじめがミステリーに登場しない、自分と同世代だと感じられる時代の作品なので、当時のワクワク感を思い出しながら楽しんで読みました。

トリックは今読むと「おお!」というほどの意外性はなかったけど、読み物としてどれも面白かったですね。様々な作家さんのアンソロジーなので、ひとつひとつの感触が違っていて、高級アソートチョコのような楽しみがあります。

こういう、少し昔の(若い人から見れば大昔か)本ってなかなか見つけにくいのですが、また探して読んでみようと思います。

 

須賀敦子「須賀敦子エッセンスⅠ」1029冊目

「一万円選書」の最後の一冊、読み終えられずに持っている本が、この著者のイタリアの軌跡を別の女性がたどる本で、どうもおおもとの須賀敦子を読まないと落ち着かないので、先に目についた一冊を読んでみました。

すごく胸にくる、なんともいえない素晴らしい本でした。エッセイということになっているけど、私小説と言われてもおかしくない。それくらい、登場する彼女のまわりの人物が、客観的にそれぞれ人物として描かれています。一方で、著者自身が彼らのことをどう思っていたのか、彼らの弱点も客観的な特徴も同じように白日のもとに描き出していて、まるで人混みの中で行きかう知らない人たちを描写するみたいに視点が高くて、エッセイじゃないみたいなんですよね。

読まされている私たちは、客観的に描かれる彼らひとりひとりに気持ちが入り込んでしまって、貧しさや不幸もひっくるめて、強く惹かれてしまう。そこに行って続きが見たい。

でも、惹かれるそばから胸の中を風がスース―通るような虚しさがある。それは、彼らの多くが貧しさや不幸のなかで早逝してしまうから。時々、昔のアーティストの曲を初めて聴いて夢中になることがある。むさぼるようにCDを買いあさっても、最初からその人はもう死んでいて、知らない人の残したものを探してぐるぐる回っているような徒労感を感じたりする。・・・それと似ています。

この本のなかで一切書かれていないのは、彼女が周囲の人たちからどう思われていたか。普通、特に日本のような狭い社会で暮らしていると、個人としてまず考えるのは、自分は受け入れられているか?好かれているか?ということだと思うんだけど、彼女はフランスでもイタリアでも自分のことを本当に書かない。自分の考えは、「誰か」や「何か」に対してどう思ったかという感想や分析として出てくる。初めての国、初めての町、初めての人との交流は飛び越えて、最初から親しい仲間みたいにみんな登場する。だから読むほうは入っていきやすいけど、すでにそこにいさせてもらっていることに、どぎまぎしてしまう。

ミラノの鉄道官舎の貧しさは、「自転車泥棒」みたいなイタリアの「ネオ・リアリズモ」映画とか思い出すけど、絶望の部分だけに注目した映画とは違って、鉄道官舎の家族の人生はただただ続いていく。そこから抜け出して大学を出てキリスト教左派の書店を経営していた彼女の夫もまた早く亡くなり(須賀敦子はあっさり「死ぬ」という言葉を常に使っている)、二人の間には子どももない。命をつないでいくのは、ゴテゴテした家具を持ち込む若い夫婦だ。貧しさが継続されるのかどうかはわからないけど、若い生命力だけがとにかく何かをつないでいく。

これをエッセイとして書くということは、すべて事実ですと言い切ることなので、彼女の父の愛人のことや、夫の家族にいた娼婦のことなど、今のモラルで考えると、没後であってもなかなか書けない。書くものにとっては、昭和はまだ書きやすい時代だったのかもしれない。

本当にいったいどういう人だったんだろう。自意識を表に出すより、とにかく観察する。人を内面までよく知り、決してジャッジしない。この人は小説は書いたんだろうか。書くとしたらアガサ・クリスティみたいに、人物を描いてトリックより動機で読ませるミステリーかもしれない。

お説教とかされないで、ただ傍にいて話を聞いてくれるだけなら、自分の弱点までよくわかった人にいてもらうのは意外と快感なのかもしれない。この人はいわゆる「聞き上手」だったのかもしれないな・・・・。

あまりにも強くひきつけられてしまったので、彼女のエッセイ入門編、第2巻も読んでみようと思います。

 

竹本健治「涙香迷宮」1028冊目

これは面白かったわ~。

著者の知的体力というか胆力というか、「そこまでしなくても」というほどトリックにトリックを積み上げていて、すごいです。それほど昔の本ではない割に、なんとな~く女性の描き方がステレオタイプだったり、昭和の香りがただよってるけど、それもまた味わいです。

トリックの提示だけでもそうとうな量なので、ページ数が多いわりに一晩で読んでしまえました。(精読しないで流し読みしてるから)屈託のないパズル性(著者も読む人も、子どもみたいにワクワクドキドキする感じ)がこの著者の持ち味なのかな。

一方、犯人当ては私は外れました。あんまり伏線なくないですか?動機も初めて人ひとり殺すにしては弱いような。でもいいの、これは素敵なパズル小説だから。

それにしても、読んでも読んでも知らない作家が多すぎる。人が勧めるものやミステリーチャート上位のものしか読んでないのに、日々すごい数膨張し続けてるんだろうか。でもこの人の本は楽しいのでまた読みます。