幸田文「木」1027冊目

これは、神社で木の芽をもらってきて大切に育てる「平山」が読みそうな本だな。(久々に会った妹と去り際にハグしたり、カセットテープでルー・リードを聴くのは、平山に憑依したヴェンダース監督だとおもう)私は植物はサボテンでも枯らすけど生き物はザリガニでも誰より大きく育ててしまう(どうでもいいか)という「動物派」で植物はほんとに苦手だ。

この本の中の幸田文は繊細で優しく、自称”老女”なのに幼女みたいに感性が初々しい。きっとどんなにやさしくて温かい人だったのか、と思う。その一方で、彼女がかわいそうかわいそうという木々たちは、彼女と同じ感性で土石流や火山灰を苦々しくとらえているんだろうか、疑問にも思う。過敏な五感や良く動く筋肉を持ち、長くても100年しか生きない。雨の日は家の中や傘の中で体温を保ち、暑ければ水風呂に自分から入ることができる。それが人間で、私たちの考えや感覚はそういう仕組みをベースに発達している。常に24時間屋外にいて、大雨にも台風にも自力で耐えて、静かに静かにじっとして何百年も何千年も生きてきた木々に、自分と同じ感覚や感情を投影するのって、木々にしてみたら意外とピンとこないかも、という気がします。

私は生まれたときから虚弱体質で、小学校まではろくに学校に行かずに家で寝てばかりいたんだけど、夜中に喘息の発作を起こしたら母が「かわいそうに」と言い、同じクラスの生徒たちが「早く良くなってね」と手紙を届けてくれたりするのが、本人にしてみれば「あら」とか「へー」という感じだった・・・というのと木々VS幸田文が同じだとも似ているとも思わないけど。大変は大変だけど、本人はそれしか知らないので、大変なのが普通だと思っていることもある。そしてこれは、同情する者とされる者との関係として、わりと普遍的なんじゃないかと思っています。

木とは言葉があまり通じないから、わかりあうために話し合うわけにもいかないけど。実際、どんな気持ちで暮らしてるんでしょうね。

でも、木が本当は怖い、というのはすごく共感しました。大きい木って怖いんですよ、その場所の雰囲気にもよるけど、個人的には、井の頭公園の木は夜中や早朝は怖くて歩きたくない。明治神宮の木はおごそかで、ちょっとプライドが高くて、ちょっとだけ苦手。新宿御苑の木は優しくて好き。幹に触らせてもらっていると、いやしてもらえる。原生林の木はだいたい、田舎の人みたいに強くて朴訥で、コミュニケーション下手っていう感じがする。

自分を相手に投影する人と、相手から何かを読み取ろうとする人、という違いがあるのかもしれないな。この著者は前者で私は後者なんじゃないかと思うんだけど、どうだろう・・・。

 

ブレイディみかこ「RESPECT リスペクト」1026冊目

昔の女性アナキストについて学び、懐かしみ、憧れつつ、現代に生きる女性がアナキストとして立つ・・・という建付けは、他の小説と同様。こんどはサフラジェットと、ロンドンのシングルマザー用施設を追われた若い母たちが立ち上がるさまを対比しています。チャーミングなイラストのおかげもあり、「E15ロージズ」のメンバーがみんな素敵。特に・・・ブルース・ウィリス似のゴッドマザー的パンクおばちゃんが素敵すぎる。

その一方で、日本の大手新聞社の駐在員である史奈子の存在の描き方につい注目してしまう。バーバリーのトレンチコートを着てプラダのバッグを持った若い女性。私がロンドン駐在していたときは、日本支社からロンドン本社への研修だったので、日本の駐在員グループには入れてもらえなかったけど、ロンドン在住の”友達の友達”からは、苦労してる私と違ってあなたはいい御身分なんでしょ?と最初からDisられたのをおぼえてる。(結局、電話一本しただけで会わずじまいだった)私はバーバリーのコートを買うお金なんてなかったし(高くていいものだと思って欲しかったけど1ポンド250円の時代だ)、ブランドのバッグなんかいくら丈夫でもセンスよくないしみんなと同じものを高い金出して買う気が知れなかったけど、会社が借りてくれた、Poshな郵便番号の場所にある綺麗なフラットに住めて、いい御身分だったんだと思う。そういう、お高くてごめんなさいみたいな気持ちが、その後何十年もずっとある。

だから、史奈子を「日本の会社の中でずっとつぶされてきた女性」、E15ロージズの仲間として描いていることに少しほっとしてる・・・いやでも違うな。私は自由でリッチな外資系企業の女として、日本企業の人たちからも、ロンドンで苦労してる日本人からも、ちくちくと言われることが続いてきた。だからここ数年は、新しく知り合う人たちに、過去の話は一切しない。それで仲間にしてくれる人たちと、何も言わずに助け合って暮らす。仲良くなってから、これまでの話をすることもある。

多分、どこで何をしていても、肩書や会社やその他外面的に付随するものでその人を判断する人は、似た特徴を持つ人とだけ固まって暮らしていくんだろう。その中には、”自分たち”以外を強く疎外する人もいる。でも、今なら私は、自分と違う人たちをそれほど締め出さない人もたくさんいることを知ってるから、それほどもう怖くない。

私は誰も攻撃しないし、嫌いな人や攻撃する人も含めて、まあまあみんな幸せにやっていければいいと思ってるけど、世の中の常識や決まりに興味があまりないし、政府に頼る気も全くなくて、困ってる人どうしで助け合いながらやっていこうという意志は強いので、そういうのもアナキストの一種なのかな?だったらアナキスト上等。

 

泡坂妻夫「しあわせの書」1025冊目

面白かった。昭和62年が初版のこの文庫本。時代を感じさせる設定(まだスマホはおろか携帯もない、ネットで調べものもできない、などなど)、なんとなく楽観的な語り口。この感じ、バブル前期あたりの小説によくあった。ちょうど私もこれから東京へ行って大学に通うぞ~と希望で胸がいっぱいになってた時代。

これを読んでみた理由は、とある最近人気の小説でこの著者についてうっすら言及してたから。パズルを解くような仕掛けが、ミステリーのコンテンツに加えてさらに楽しさを添える。これと合わせて文藝別冊の泡坂妻夫特集号も借りて、収録された「かげろう飛車」も読みましたよ。これも短いのによく寝られていて、短編小説の醍醐味があります。

私この頃もう多少はミステリーも読んでたのに、この人の作品は読んだことなかった。「ミステリマガジン」とか購読してマニアになればよかった、何もかも中途半端だった気がする。(いや、雑誌毎月買うお金も当時は余裕なかったわ)(ならその頃こそ図書館通えばよかったんじゃ)

まあとにかく、遅れても出会えてよかった。日本のミステリーのジャンルの広さ、奥の深さにまたちょこっと触れられた作品でした。

 

 

雨穴「変な家」1024冊目

何年か前に深夜テレビで、ドラマ化したのをやってました。これが気味悪くて面白くて・・・。あのときは確か一話完結のオムニバス ストーリーだと思ってたけど、これは1冊で一話でした。登場する間取りは3軒分、中心にいる人物は共通してる。面白いけどパズル的な謎解き要素は思ったより少なめです。(多分わたしには解けないと思うので、これでちょうどいいかな。。。

山手線一周するくらいの時間で読み終わったので、「2」も読んでみようかな・・・。

 

杉井光「世界でいちばん透きとおった物語」1023冊目

タイトルからは、いまどきの若い人が書いたエモいミステリーかなと思う。そういう趣もないではないけど、感覚的、感情的な文体ではないし、ストーリーは一貫してる。それより何より、読んでいる途中でソレに気づいたときの鳥肌が、この本の読書体験の最高の瞬間ですね。

ほんとに、ご苦労様でした・・・関係者のみなさま。私こういうの嫌いじゃないです。

影響を受けたというある作家の作品がどうしても気になって、ググって見つけました。そっちも読んでみます。

これ必要?と言われたら・・・そもそもミステリー自体、生きていくうえで必要なわけじゃないし、昨日「地下鉄謎2024」を友達と解いて満足したばかりの私から見れば、これこそが人生を輝かせる楽しいムダですね。今日も満足です。

 

島田荘司「占星術殺人事件」1022冊目

面白かった!読み応えあった!

トリックは確かに大胆不敵、しかも犯人が・・・。読み始めたときは「魍魎の匣」みたいなオカルトっぽいミステリーだと思ったし、そういう雰囲気をかもし出すために設定を昭和初期にしたのかなと思ったけど、トリックの設定上も必要だったんだな。それを知った上で、40年間も解かれなかったミステリーを変わり者の占い師探偵が解くという構成はすごく魅惑的でした。

これ、多分「史上最大のトリックベスト10」みたいな何かで見て読んでみようと思ったんだけど、なるほどの充実感でした。文中2回「読者に挑戦」という場面があるけど、真剣に作家と対峙するより、流されて読んで「すっごーい!」と喜ばせていただきました。大満足です。

ところで・・・これに登場するのと同様の偽札事件って私の地元で起きたことがあって、大きな看板をかかげたその人の店舗のことを思い出しては、(夜な夜な作業してたんだな・・・)と思ったものでした。これ自体は、時代に関係なくできるトリックだから、昭和初期の事件であっても説得力あります。

誰かが勧める本を読んだり映画を見たりするのって、やっぱりいいな。自分では出会う機会がなかった世界に出会えて。読みたい本がまだ山積みだわ。

 

佐々涼子「夜明けを待つ」1021冊目

この人の文章ってすごくきれい。母親が少し上から見下ろしてるようで、やさしくて正しい。なんとなく、佐々涼子ってきっと、すごくきれいな声の人なんじゃないかと思う?

死がちかづいてくるから死を思うのかな。私はいつも死にそうだった母のことを見てたから、子どもの頃はいつも死のことばかり考えてたのかな。母が亡くなってからは、生きることばかり考えてる気がする。といっても、父と母の寿命を考えると(足して二で割る、というあまり根拠のない計算)このままいくとだいたい70前には死ぬから、あと何年生活費があればいいのか、とか計算してる。

日本語教師って、まっとうで賢くて常識もあるけど堅苦しすぎず、いい人が多いなぁと(一般論としては)思ってる。その中に入っていくと自分はちょっと異物感ある気がする。(学生たちと自分、という場ではそれほど違和感は感じないんだけどな、私は・・・。)

私は、自分には現実を変えることはそもそもできないと思うようになって、変えられなかったことに悔恨は持たなくなったと思う。私が22歳のときに母が亡くなる頃までは、がんばれば世界を変えられると思ってがんばってたけど、ぷっつりとやめた。その後30年もたってから、私の父は胃ろうをせずに亡くなったけど、そのときすでに認知症がかなり進んでた。私は父の手をにぎって、ずっと笑って、だいじょうぶだよお父さん、よくがんばったねって、子どもをあやすみたいに見送った。達成感すらあった。人は自分の自然死の時期を選べない。私は自然にさからうほど生意気じゃない。

日本語をじゅうぶんに学ぶ機会のなかった人たちに日本語を教える、ということは、私の余生のライフワークのひとつ。必要だからやる。自分にもできそうだからやってみる。時間が余っていて、それほどお金はたくさん要らないから、やる。やるべきだと信じることをやっていられる幸せをかみしめる。無理に定年まで会社勤めをしなくてよかった。やめたい自分の本音に従って本当によかった。

自分の行く道って、生まれつきたぶんある程度決まっているけど、見つけるのは難しい。これから何年生きるのかわからないけど、今書いてることを全否定するような考え方になることだってありうる。そのとき、そのときに、まじめに自然にいられればそれでもいいや。・・・そんなことを考えたりするのでした。