「一万円選書」の最後の一冊、読み終えられずに持っている本が、この著者のイタリアの軌跡を別の女性がたどる本で、どうもおおもとの須賀敦子を読まないと落ち着かないので、先に目についた一冊を読んでみました。
すごく胸にくる、なんともいえない素晴らしい本でした。エッセイということになっているけど、私小説と言われてもおかしくない。それくらい、登場する彼女のまわりの人物が、客観的にそれぞれ人物として描かれています。一方で、著者自身が彼らのことをどう思っていたのか、彼らの弱点も客観的な特徴も同じように白日のもとに描き出していて、まるで人混みの中で行きかう知らない人たちを描写するみたいに視点が高くて、エッセイじゃないみたいなんですよね。
読まされている私たちは、客観的に描かれる彼らひとりひとりに気持ちが入り込んでしまって、貧しさや不幸もひっくるめて、強く惹かれてしまう。そこに行って続きが見たい。
でも、惹かれるそばから胸の中を風がスース―通るような虚しさがある。それは、彼らの多くが貧しさや不幸のなかで早逝してしまうから。時々、昔のアーティストの曲を初めて聴いて夢中になることがある。むさぼるようにCDを買いあさっても、最初からその人はもう死んでいて、知らない人の残したものを探してぐるぐる回っているような徒労感を感じたりする。・・・それと似ています。
この本のなかで一切書かれていないのは、彼女が周囲の人たちからどう思われていたか。普通、特に日本のような狭い社会で暮らしていると、個人としてまず考えるのは、自分は受け入れられているか?好かれているか?ということだと思うんだけど、彼女はフランスでもイタリアでも自分のことを本当に書かない。自分の考えは、「誰か」や「何か」に対してどう思ったかという感想や分析として出てくる。初めての国、初めての町、初めての人との交流は飛び越えて、最初から親しい仲間みたいにみんな登場する。だから読むほうは入っていきやすいけど、すでにそこにいさせてもらっていることに、どぎまぎしてしまう。
ミラノの鉄道官舎の貧しさは、「自転車泥棒」みたいなイタリアの「ネオ・リアリズモ」映画とか思い出すけど、絶望の部分だけに注目した映画とは違って、鉄道官舎の家族の人生はただただ続いていく。そこから抜け出して大学を出てキリスト教左派の書店を経営していた彼女の夫もまた早く亡くなり(須賀敦子はあっさり「死ぬ」という言葉を常に使っている)、二人の間には子どももない。命をつないでいくのは、ゴテゴテした家具を持ち込む若い夫婦だ。貧しさが継続されるのかどうかはわからないけど、若い生命力だけがとにかく何かをつないでいく。
これをエッセイとして書くということは、すべて事実ですと言い切ることなので、彼女の父の愛人のことや、夫の家族にいた娼婦のことなど、今のモラルで考えると、没後であってもなかなか書けない。書くものにとっては、昭和はまだ書きやすい時代だったのかもしれない。
本当にいったいどういう人だったんだろう。自意識を表に出すより、とにかく観察する。人を内面までよく知り、決してジャッジしない。この人は小説は書いたんだろうか。書くとしたらアガサ・クリスティみたいに、人物を描いてトリックより動機で読ませるミステリーかもしれない。
お説教とかされないで、ただ傍にいて話を聞いてくれるだけなら、自分の弱点までよくわかった人にいてもらうのは意外と快感なのかもしれない。この人はいわゆる「聞き上手」だったのかもしれないな・・・・。
あまりにも強くひきつけられてしまったので、彼女のエッセイ入門編、第2巻も読んでみようと思います。