夏目漱石「こころ」449冊目

もう7月なかば。そろそろ、この先の生き方を考えてみなきゃと思って、こわごわ再読。実家にあった文学全集を何冊か持ってきてるので、常にこの本は書棚の奥にありました。(昭和44年発行)

あらすじはおぼえてるつもりだったけど、主人公を「先生」と呼ぶ書生の場面だけで3分の2も占めてたというのは完全に記憶違いでした。ページが残り少なくなった頃にやっと「K」が登場します。不穏な気持ち。彼が元来、一本気な性格だったことを思い出しています。Kの姿を想像するとなぜか、三島由紀夫の顔が浮かびます。書生が手紙を読んだときの状況も忘れてました。これほど彼本人の父親の状態が切羽詰まっていたとは。

先生の遺書は遺書というより自伝で、死を決めたことについては最後のほんの数ページしか当てられていません。
凡人ならこの遺書だけで一編の小説にするだろうな。これを誰に託すのかということに説得力を持たせるためだけに、小説の3分の2を充てる判断。文豪ってやつは。

重いストーリーについては、読み終えて胃潰瘍が再発しそうで著者に共感します。ああ明治時代にザンタックがあれば。先生の言動がKを死なせるきっかけになったのか?という点は、きっかけではあったけれどこのきっかけがなくても彼のその後の人生には、手のひらの生命線に生じた悪い兆しみたいに、どこかで必ず非業の死を遂げる運命が刻まれてたんじゃないのか、という気がします。

今「100分de名著」でオースティンの「高慢と偏見」を取り上げていて、漱石が影響を受けたという人物造形が確かにすごい、でも漱石もな、と改めて思います。小説っていうのは、ストーリーじゃなくて人物を先に完成させるものなのかな、と。作者はなんて意地悪なんでしょう。太宰治は常に自分のずるさを告白しては自己批判したりあざ笑ったりしますが、漱石の底意地の悪さの足元にも及ばない善人に思えてきます。また、昨今の手練れの作家たちの腹黒さが、今に始まったことじゃなかったことに今頃気づいているという、自分の読みの薄さに呆れてます。

ところで、「こころ」は日本で一番読まれてるとか愛されてるとかどこかで読んだけど、おそらく「日本で一番、みんな知ってて、言っても恥ずかしくない小説タイトル」の間違いだろう。小説は読まない、あるいは特別好きでもない小説をなんとなく読んでる人が多くて、学生のときに読まされたか読んだふりをした「こころ」を上げるしかない人がこんなにたくさんいるということだと私は思います。

そういえばロンドン駐在中に「珍しいところに行きたい」というご夫妻を漱石記念館に案内したことがありましたが、2016年に閉館したとのこと。彼らは今どうしてるのかな、あの記念館に行ったことを少しはよかったと思い出してくれてるのかな。