ニコルソン・ベイカーの「U&I(アップダイクと私)」を読んで、そこから本物のアップダイクに来た。(これにもおおもとの「ボルヘスと私」があるとは知らなかった。読まなければ!)
これエッセイと書評を集めた本で、「アップダイクと私」は、作家として注目されるアップダイクと現実の本人という意味。本名だしエッセイや書評を自分の目で見て書く人だから、筆者と本人の乖離は小さそうなのに。
けっこう厚い本で、知らない本の書評なんかは読み飛ばそうかと思ったりもしたけど、知ってる本を別の文化圏の人が評するのはすごく興味深く読めた。
たとえば「海辺のカフカ」。彼には日本の多神教文化を基底に持つ村上春樹が、あっちこっちにふらふらとしてしっかり一本の背骨が通ってないように感じられるらしい。私は村上春樹作品のふわふわした感じが、日本人特有というより、彼自身の夢見がちな、ちょっと地に足がついてない特性によるものかと想像してた。面白い。実際どうなんだろうな。確かに他の小説でも、価値観がゆらゆらしてるものは多いかもしれない。南米のマジック・リアリズムといわれる小説には、短くて途中から異世界入ってくるものでも、どこか図太い柱が一本通ってるような安定感を感じるものがあった。なんとなくアップダイクの指摘は的を射てる気がする。
夏目漱石も批判する。アップダイクには、私たちが「現代日本人のもつ言葉にならない不安」としてそのまま持ち続けている感覚は、彼にはちゃんと分析していないだけだと見えるのかもしれない。日本には問題の原因を解明したり分析したりしないで、空気を読んで独自解釈をする文化がある。で、その独自解釈が事実として蔓延していく。ムラ社会の問題解決方法だよなぁ。現代人のモヤモヤは、そうやって誰かが決めた結論に従っていればよかった前近代から、すべてを合理的に解明していく西洋文化へ移行しようとしても気持ちがついていかない、ということなのかもしれない。
私が文豪だと思っていた漱石を批判したアップダイクは、谷崎はすごく褒めるんですよね。「武州公秘話」と「吉野葛」は読んでみなければ。(「吉野葛」が収録された短篇集はたくさんあるけど、「武州公秘話」は昔の文学全集にしか入ってない。討ち取った敵の首を並べてある、という話らしいので、今はあまり好んで読まれないんだろうな)
プルーストについては、私は読書好きとして一度は「失われた時を求めて」に挑戦してみたけど、あっという間に飽きてしまった。何も起こらないから。でもアップダイクの引用する「失われた時を求めて」第一部「スワン家のほうへ」を読んでると、これは超絶長いバージョンの「銀の匙」なのかもと思えてきた。永遠の一瞬。子ども時代に経験したその瞬間を、長い文章でつづる。半隠居してもなおプルーストにイライラしてしまうせっかちで落ち着かない私だけど、もっと田舎に引っ越して、もっと仕事を減らして、することないなーという境地に至ったら、もしかしたら最後まで読めるんだろうか。
本を読めば読むほど、わずかずつでも得るものがある。でも読んでも読んでも疑問に思い続けていたことの答えを、この本でいくつももらってしまった。生きていたら師と仰ぎたかったなぁ。
アップダイクが自分が原作を書いた「イーストウィックの魔女たち」を引き合いに出して、小説の映画化について書いたエッセイも興味深かった。彼ならどう語るか?と思ったら、原作と小説は別物で、乖離が大きいほど良いとのこと。なるほど。
久しぶりに、確固とした自分の物差しを持っている人の評論を読んだ気がする。好き嫌いとかなんとなくではなく、この人なりの価値判断できれいに並べ直していくのが、読んでいて痛快だったし、自分の知識を見直してみようという気にもなった。読んでみて良かったです。