大江健三郎「水死」969冊目

すごく面白かった。と書くと、最新のブログや動画が面白かったのと区別のつかない貧しい表現になってしまうけど、気軽に読み始めたのに謎の要素やストーリーの先が気になって、続きを読みたいから早く帰宅する。厚い本だけど、電車やバスに持って乗る。

一目見ただけでぐっと掴まれる要素が冒頭からぽつぽつと現れて、「何それ?」と思いつつ、まるで誰かのブログを読むみたいにどんどん読み進めてしまう。例えば「赤革のトランク」、例えば「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」という名の劇団、ウナイコという不思議に魅力的な女優、「死んだ犬を投げる」という刺激的な演出。語感に惹かれた後、その正体を知り、「へぇ~」と思ったり、がっかりしたり。赤革のトランクの中身に対する失望は、私小説というよりエッセイのようにリアルに「残念だったね大江さん」という共感となり、平穏な日々のまま終わる小説であることを許容しながら読み進む。

でも、結末に至るヒントは誰も期待しなかったところに残っていて、細~い糸をたぐっていったら、最後の2章で隠されていた事実が明らかにされて、すべてがひっくり返ったところでスッと終わる。エッセイでも私小説でもなく、私が典型的な純文学だと思う構成だった!

大江健三郎は小説家 長江古儀人(その分身はカタカナで「コギト」)、息子で音楽家の光はアカリとなってこの小説内で役柄を演じているんだけど、むしろ現実に近い小説家と息子のエピソードは、なくてもこの小説が成り立つもので、作者の独創に現実みを加える効果をもっているようにも思える。身近なブログでも読んでるような気持ちで読んでるからこそ、普通じゃないことが起こるとショックが大きい。

天皇制や家父長制に対する批判や立ち上がる女性たちをテーマとしている、とどこかで読んだ。批判というより打倒じゃないかというくらいの強さ、怒りも感じられる。最後のその爆発は、ぱっと見なにを考えてるかわからない大黄の心の中と同じように、この本のなかではずっと隠されてる。作品の中で老いを痛感している弱弱しい長江の分身(本身?)である大江健三郎はこんなに巧みで熱いのだ!

興奮ぎみに本を閉じて思った。なるほどノーベル賞を取る作家の作品って、こんなに揺さぶられるんだ。自分より高いところに視点がある。自分が書いている作品がどこへ向かっているかを、私たちはわからないけど、作者にはかなりはっきりと最初から見えている。だから私たちは手のひらの上で転がされていると感じる。それが高い視点。不安や不穏がそのまま最後まで持ち越されるモヤっとした作品にも素晴らしいものはたくさんあるけど、私は自分を高めてくれる気がして、こういう作品のほうがいいのだ。

大江健三郎を読もうと思ったのは多分、今年の3月に訃報を聞いたからかな。この本を選んだのは、ほぼ最後の小説作品だから。(「晩年様式集」はタイトルから長編小説だと思わなかった)これから、遅ればせながらもっと読んでみよう。