瀬戸内寂聴(晴美)「花芯・夏の終わり」747冊目

ある小説が「私小説」なのか「フィクション」なのか?

どの作家でも同じだと思うけど、混同してすべて著者の経験だろうと思い込む人って多いと思う。読者はどこでその区別をつけるんだろう。

寂聴さんの”最後の私小説”と何かで読んだ「いのち」を読んだので、デビュー作も読もうと思って「新潮日本文学58 瀬戸内晴美集(昭和47年発行)」を借りてきて読んでみました。「花芯」がフィクションだということは、感触でわかる。主人公の女性の開き直り方がちょっとリアルじゃない。コールガールへと身をやつしていき、60くらいの上品な紳士と出会う結末近くは、リアリティが薄くてファンタジーだなこれはと感じる。そういえば作品全体に、主人公を責めるトーンが強いのは、無言の著者の罪悪感、自分を罰する気持ちの現れのようにも思えてきます。

この人の小説って、読む人を喜ばせようと思ってない感じがする。自分が書かなければならないから書いている。その切迫感は、若さゆえ(とは限らないか)の性愛とか情愛に突き動かされて「もう止まらない!」というもので、見ていて危なっかしい。性欲が止められないくらい強い(※ニンフォマニアとは意味が違う)ことはその人のせいじゃないけど、リスクや不幸を伴うし、精神的にも辛い。

瀬戸内寂聴の作品のなかの女性は、何も知らない若いうちに嫁いだので、夫のような誠実で一途な人の、思い込みあるいは思い過ごしめいた強い愛情をありがたく思わない。昭和のトップ女優が監督と不倫の末、誠実で一途な助監督にプロポーズされて仕事をすべて捨てて家庭におさまった、という話はその対極にある。

今でも、あまり恋愛経験を持たずに結婚して家庭に入って、自分が自由恋愛をしたい気持ちに罪悪感をもたない人もいる。セクハラに次ぐセクハラに疲れ果てて、誠実な夫を待ち続ける人もいる。

平野謙によるこの本の解説で、フィクションと分類されている「花芯」に対して「夏の終り」は私小説とされている。自分の中にあるものをそのまま解き放ち、それを自然のまま観察することが芸術なのかな。私は自分と誰かが出会ったときの自分の変化には、できるだけ関心を持たないようにして来たと思う。今はもう自然のなかの自分、とかにしか関心が向かなくなっていて、そのほうが楽だ。晴美あるいは寂聴さんから見たら、不自然に見えるのかな…。