鈴木克明・有紀「不器用なカレー食堂」616冊目

東京都世田谷区で「砂の岬」というインド料理レストランをやっている夫婦の、これまでの道のりをそれぞれの言葉で著した本。友人にこのレストランに誘われたので、行く前に読んでみました。

この本を書いたのは今から5年前、レストランはまだ新しく、それ以前の移動販売車やカレーに関わるようになる前のことも書かれています。その時点ではまだ夫婦二人だけでやっていたようですが、その後お子さんも生まれたようで、店には他にも何人か店員さんがいらっしゃいました。手作りのアジアおもちゃ箱のような可愛らしいものを並べた店内は、子供部屋のようでもありますが、私が食べた「10周年記念コース」の味は本格的。18品目+飲み物という大変な手のかかるお料理を、おそらく何日もかけて仕込み、直前に火を入れて美味しい状態で供してくれるその手際はプロフェッショナルです。

私は、お店の雰囲気は、良ければもちろんいいけど、まったく殺風景でもそれはそれで気にならないほう。なので、この本を読んでどっぷりとこの店に浸るのもいいけど、何も知らずに通りすがりにテイクアウトのカレーを買い続けるのもいい。結局、食べ物やさんの考えとか人生とかってお料理そのものにほぼ全部反映されるものだと思います。

今日食べたコースはこの店の粋を極めたようなコースだったけど、毎日ずっと出してる「いつものカレー」もまた食べに行ってみたいなと思いました。 

 

ディーリア・オーエンズ「ザリガニの鳴くところ」615冊目

ミステリーであり、ひとりの女性の壮大なドラマであり、湿地の物語でもあります。

全体的にはファンタジーだと思ったほうが良さそう。親や兄姉に次々に去られて、学校にも行かずひとりだけで自活しながら美しく成長し、学者たちを驚愕させる自然誌のベストセラーを何冊も著した女性…という設定にリアリティはあまりない(すごくよく書かれているにもかかわらず)。この小説の中心となる殺人事件の動機やテクニックには、それにも増して説得力が薄い。それでも長期間にわたって全米ベストセラーを続けているのは、リアリティ以外に強く人の心に訴えかけてくるものがあるからに違いありません。

それは何か。「ホワイト・トラッシュ」=貧乏白人、と呼ばれる最下層の人々、黒人の雑貨屋夫婦に施しをされなければ生き延びられなかった彼女に、共感はしないまでも同情することで自分には屋根もベッドもあると安心できること、か。

湿地や沼地に見られる、清濁あわせ持った 自然の恐ろしさや美しさに触れて、自分たちがどこから来たか、という生命の大きな流れに包まれるような気持ちになれること、か。

読者によって、読み取ったり受け取ったりしたものは違うんだろうと思います、著者の意図が何であれ。

この著者、すごいですね。69歳で初めて書いた小説。人にはみな語るべき物語があると思います。それが熟成されて表現された。自然や人間関係の描写の精緻さや、彼女の積み重ねてきた専門領域や人生経験をほうふつとさせます。その一方で、10代の新人が書いたような、思いが先走ってリアリティを欠く部分(犯人らしくないアリバイ工作の精緻さとか)も目に付くのですが、誰がなんと言おうと彼女はこの物語をこの筋にしたかったんだろうと思います。

全然完璧ではないけれど、広大な沼地の広がりや人間、動物、自然のつないできた時間の壮大さまで感じさせる、大作です。

ザリガニの鳴くところ

ザリガニの鳴くところ

 

広尾克子「カニという道楽」614冊目

著者はカニを食べに毎年産地へ旅行するほどのカニ好きだけど、私もカニ好きでは負ける気しません。一緒にカニツーリズム行ってくれる友達がいないので、たまに食べるカニをすみずみまで味わってるだけで…。でも、「おわりに」の最後に著者が「カニも喜んでいることと思います」とあるのは多分まったく逆で、彼らは私や彼女のことを天敵とみなして恐れ嫌っているに違いありません(笑)。

この本は、「楽しい読み物」ではないんですよ。著者が西日本のカニ漁場やカニが名物の温泉町や市場を調査行脚したレポートと、そこから著者が推測した歴史などが書かれた本。なんというか、楽しく読むには事実の羅列が多く、論文として読むには系統だっていなくて数値分析もなく、「思ったこと」が多い。大学院のときに私が書いて教授陣にいつも怒られていた「これじゃ論文とはいえない」やつを思い出して胃が痛みました。

カニは語るものではなく食べるものだ。とりあえずアメ横に丸ごとゆでたズワイを一匹買いに行きたい。そんな懐具合ではないけど、年末年始になら食べてもいいよね…。

カニという道楽 ズワイガニと日本人の物語

カニという道楽 ズワイガニと日本人の物語

  • 作者:広尾 克子
  • 発売日: 2019/10/09
  • メディア: 単行本
 

 

柳美里「JR上野駅公園口」613冊目

外国で翻訳文学賞をとったと聞いて、さっそく読んでみたら、この人は創作家である前に社会活動家だ、と思いました。実際のところ上野のホームレスの人たちは、ホームレスでない人たちと同じように幸せになろうとして生きてきたんだけど、ホームレスになった。それ自体がとんでもなく不幸というのではなく、家があっても極めて厳しい人生を送ってる人もいる。家がない人生の中で嫌気がさしたり八つ当たりしたくなることもあるだろう。でも、いろんな人がいるはず。この作者は、その中で辛い思いを持っている人の不運に注目しがちな感じがあります。

一方で描写は、豊かで自由な想像力にまかせて飛び回る。私はマジック・リアリズム小説が好きなので、それもいいんだけど、全く同じテーマを描く小説でも多分、まるで不幸に縁がないような一見ハッピーなホームレスの中にある真っ暗な深淵から、ここではない別世界へ飛んでいけるような小説のほうが、きっと好きなんだと思います。

あくまでも好みの問題。社会活動家としての活動は、基本的に応援しています。

津野敬子「ビデオで世界を変えよう」612本目

この人すごい!こんなにパワフルでめちゃくちゃ勇敢で行動力のある日本人女性が、こんな活動をニューヨークで長年やってきたなんて。あまりに素晴らしすぎる。

先日Netflixで見た「カメラが捉えたキューバ」というドキュメンタリーがすごく面白かったのです。カストロにも、その辺のおじいさんたちにも同じ態度で接し、カメラを抱えて取材対象とおしゃべりしながら撮影する、このジョン・アルパートという監督は何者なのか、これ以外にどういう作品を作ってきたのかググってみたわけです。そうすると、「キューバ」にもときどき映っていたアジア人女性が津野敬子さんでした。彼女は美大を出て、まだ1ドル360円だった1967年にニューヨークに渡り、アートに携わる中で当時まだ機器が発売されるかされないかという時期のビデオカメラを入手し、ジョンにそれを使ったドキュメンタリー制作を提案したのも彼女だったそうです。

この夫婦の勇気といったら!二人でキューバでもどこでもすっ飛んでいくのですが、爆弾がすぐそばに落ちても、その勇気が損なわれることはありません。出産を機に敬子さんのほうはNYに設立したドキュメンタリー制作会社の経営に活動の主軸を移していくのですが、それがまたNYのドキュメンタリーの歴史を作ってきた実に偉大な事業なのです。カッコイイ…カッコ良すぎる…。

私に限らず、「本当はこう思ってるんだけど」と心の中の思いを隠して、周囲に合わせようと無理してきた人はたくさんいるはず。彼女のような真っすぐわき目もふらない生き方がまぶしくてたまりません。

私もだいぶ生きてきたので、最近は好きなことばかりやるようになってきたけど、新しいことを学んだり挑戦したりすることにはおっくうになってきてます。生命力とか推進力が枯渇しつつある。このまま、ただのんびりやっていくのかなー、これで良かったのかなー。…まいっか。自分らしくこれからもやっていこう。 

いろいろ考えちゃうね、こんな本を読むと。

ビデオで世界を変えよう

ビデオで世界を変えよう

  • 作者:津野 敬子
  • 発売日: 2003/05/31
  • メディア: 単行本
 

 

崔実「ジニのパズル」611冊目

胸に来た。この子を静かに抱きしめていたい、と思った。抱かれるのが苦手な猫みたいに、ふんわりと膝に載せて。

感受性が強すぎて、すぐ泣いてしまいそうだから、お面のように顔をこわばらせて暮らす。そうしないと、泣きっぱなしではどこにも行けない、何もできないから。いつも緊張してたから顔の左側がうまく笑えない。何を言っても何をしてもいい奴だと思われて、うそみたいにひどいことをされる。結末で問題が解決して、明るい自分に戻る、とかじゃなくて、傷ついたままのこの子を見て、懐かしいような安心するような気持ちになる。自分の中のあまりにも奥に閉じ込めてしまって、忘れてしまってた幼いころの心。

目の前にこの子がいたら、何をしてあげられるだろうな。触られたくないだろうし、声もかけてほしくないだろう。ただ黙って隣に座っててもいいかな。それはこの子のためというより、一緒にいたいと思う自分の望み。

ストーリーを思い返してみると、裾の大きい民族服を着た女の子たちの通う学校がどういうところなのか、南じゃなくて北だということもわかってませんでした。不思議な成り立ちの、閉じていて優しくて偏った場所。学校ってどこも偏ってるのかもしれないけど。いじめとか嫌がらせとか、すべての悪意の攻撃は、どんな人もやる可能性があるし、やってるところを見ない限り「この人がまさか!」と信じられないような人までやるものだ。そして自分の「悪意」を吐き出してよく眠って忘れる。逃げる方法も解決する方法も、私はまだ見つけてないです。この作者が何を書き続けてくれるかずっと見ていようと思います。 

ジニのパズル (講談社文庫)

ジニのパズル (講談社文庫)

  • 作者:崔 実
  • 発売日: 2019/03/15
  • メディア: 文庫
 

 

ジョディ・カンター、ミーガン・トゥーイー「その名を暴け」610冊目

原題は「She Said」。この本の本質は誰かの名を暴くことではなくてワインスタインやカバノーの過去の性的暴行を公にして立証することなので、この邦題は不適当で煽情的なんだけど、本はとりあえず手に取ってもらうことに意義があるという意味では、宣伝効果のあるタイトルだと思います。

大変力強いノンフィクションでした。取材する人たちの知性と粘りとエネルギー、対する暴行者側の行動。女性たちの弱さと強さ。末尾で翻訳者が書いているように、この本が日本ではまだまだ当分書かれない現状が残念である一方で、私たちが目指す道を示してくれているようにも思います。

性的暴行、合意不合意。セクハラとはどう違うのか?…いろいろありました。声を上げても握りつぶされたことも。今も一人でいるのは過去の傷のせいかもしれない、と思うこともあります。

ほんとにこの国はどうなっていくのかな。トランプが1期だけで失脚する国のほうが自浄作用がちゃんと働いてる、という気がしてなりません。