森博嗣「冷たい密室と博士たち」748冊目

森博嗣って比較的新しい作家さんだと思ってた(「すべてがFになる」を読んだのを覚えてる)けど、この2作目が書かれたのは1996年。だからまだ誰もケータイ持ってなくてUNIXでメールを使いこなせるのがサバイバルだったりします。データの運搬は今は亡きフロッピーディスク、すごい最新マシンのハードディスクは20GB。そして美少女の描写もなんとなく派手。

一方で、密室トリックは普遍的なものです。大学の中の低温実験棟で起こった大学院生の殺人事件の犯人は、建築部助教授+学生によってその施設独特のトリックやミスをあばかれていきます。

こういうのを本格ミステリーっていうのかな。技術中心で動機がすごく弱かったり、探偵たちが何の感情もなく血まみれの床を歩いたりしますが、そこを突っ込まず密室クイズを解くような感じで読みます。トリックの一部はわかったけど、犯人はわからなかったな。動機は…個人的には、論文剽窃で地位を脅かされる、とかなら説得力を感じられたかなと思いました。

この時代、まだカタカナ表記は「フォルダ」とか最後を伸ばさないのが標準だったので、昔のWindows本みたいで懐かしかったです。。。

 

 

 

 

瀬戸内寂聴(晴美)「花芯・夏の終わり」747冊目

ある小説が「私小説」なのか「フィクション」なのか?

どの作家でも同じだと思うけど、混同してすべて著者の経験だろうと思い込む人って多いと思う。読者はどこでその区別をつけるんだろう。

寂聴さんの”最後の私小説”と何かで読んだ「いのち」を読んだので、デビュー作も読もうと思って「新潮日本文学58 瀬戸内晴美集(昭和47年発行)」を借りてきて読んでみました。「花芯」がフィクションだということは、感触でわかる。主人公の女性の開き直り方がちょっとリアルじゃない。コールガールへと身をやつしていき、60くらいの上品な紳士と出会う結末近くは、リアリティが薄くてファンタジーだなこれはと感じる。そういえば作品全体に、主人公を責めるトーンが強いのは、無言の著者の罪悪感、自分を罰する気持ちの現れのようにも思えてきます。

この人の小説って、読む人を喜ばせようと思ってない感じがする。自分が書かなければならないから書いている。その切迫感は、若さゆえ(とは限らないか)の性愛とか情愛に突き動かされて「もう止まらない!」というもので、見ていて危なっかしい。性欲が止められないくらい強い(※ニンフォマニアとは意味が違う)ことはその人のせいじゃないけど、リスクや不幸を伴うし、精神的にも辛い。

瀬戸内寂聴の作品のなかの女性は、何も知らない若いうちに嫁いだので、夫のような誠実で一途な人の、思い込みあるいは思い過ごしめいた強い愛情をありがたく思わない。昭和のトップ女優が監督と不倫の末、誠実で一途な助監督にプロポーズされて仕事をすべて捨てて家庭におさまった、という話はその対極にある。

今でも、あまり恋愛経験を持たずに結婚して家庭に入って、自分が自由恋愛をしたい気持ちに罪悪感をもたない人もいる。セクハラに次ぐセクハラに疲れ果てて、誠実な夫を待ち続ける人もいる。

平野謙によるこの本の解説で、フィクションと分類されている「花芯」に対して「夏の終り」は私小説とされている。自分の中にあるものをそのまま解き放ち、それを自然のまま観察することが芸術なのかな。私は自分と誰かが出会ったときの自分の変化には、できるだけ関心を持たないようにして来たと思う。今はもう自然のなかの自分、とかにしか関心が向かなくなっていて、そのほうが楽だ。晴美あるいは寂聴さんから見たら、不自然に見えるのかな…。

加藤シゲアキ「オルタネート」746冊目

最初に結論を言っておきますと、人間描写の行き届いた、愛のあるよい作品で、とても面白かったです。

冒頭にある「主要登場人物」リストを見たとき、「蓉」と書いて「いるる」、「凪津」と書いて「なづ」、「深羽」と書いて「みう」といった名前が並んでいて、キラキラネームってこういうのを言うのかな、と引いてしまった。読み始めたら、文章にどことなく若いリズム感(昔なら「キャピキャピ」とか呼んだような)があって、おばはんの私はそのリズムに乗れるかなと心配になった。登場人物グループが3グループに分かれていて、なんとなくごちゃごちゃしている。…そういう、わりと苦手意識が強い状態で読み始めたけど、読み終える頃にはばらばらな性格の登場人物全員に好感を持つようになってた。なかなかの書き手だと思います。

高校生っていう時期の少年少女の不安定さを、よくわかって書いてる。読むものの不安を和らげてくれる愛が感じられる。丁寧で危なっかしいところがない。この著者はこれからますます成長して強い書き手になっていくだろうなと感じました。(アイドルらしい、というだけでほとんど知らなかった)

とはいえ私の苦手ポイントは、ネーミングのセンスかなぁ。キラキラネームもだけど、SNSの名前やコンテストの名前、やたらフランス語や珍しい外国語を使いたがる感じは、瞬間的にはキラキラして見えるかもしれないけど、50年後には「?」って思うんじゃないかな。もっと普遍的なものを目指してもいいと思います。で、20年後くらいには歴史ものとか書いて直木賞候補になってほしいです。

 

大西連「すぐそばにある貧困」745冊目

20代にして貧困とたたかうNPO「もやい」の理事長となり、ずっと熱心かつ積極的に活動を続けている人の書いた本です。テレビをつけたらたまたま国会中継をやっていて、彼が発言しているのを見たことがあるのですが、弁舌爽やかに、ためらいなく、正しいと思うことを発言できる意志の強さや知性を感じました。若いのにすごいなぁ。

そんなすごい人が、「もやい」理事長いなるまで~最初の数年の、悩みながらこの活動に、いわばどんどん深く巻き込まれていった状況を記した本です。

あるだろうなと予想した苦労がやっぱりある。この本には書かれていないけど、貧困や病気とたたかう団体の人が、仲間内や関連のある業務に携わっている人とのトラブルを書いたものを以前読んだことがある。中にはそういった辛さで辞めてしまう人もいる。何があっても、闘志を秘めつつ誰にでも礼儀正しく接し、世の中を変えようという強い姿勢を保ち続けてるところがまぶしいです。

続編を書く余裕は全然なさそうだけど、読んでみたい人たくさんいるんじゃないかな。口述でもいいので、そのうちぜひ書いてほしいなと思います。

 

瀬戸内寂聴「いのち」744冊目

寂聴さんの作品は「かの子繚乱」、「ひとりでも生きられる」くらいは私も読んだな。ネット小説「あしたの虹」も読んだわ。小林幸子ばりの、若い子のメディアにも臆さない八面六臂の活躍が好きでした。もっともっと生き続ける方だと思っていたけど、終わりは来るんですね。

「いのち」は最後の小説と聞いて読んでみた。でもこれ小説?秘書の名前が偽名なだけで、大庭みな子や河野多恵子など、登場する作家たちは実名だし、一人称の語り部は寂聴さん自身だと読む人全員が思っている。エッセイでしょう?

この人はとことん、人間に強い興味を持ち続けた人だ。とことん観察し続け、好きだとか嫌いだとかも書いてしまう、話してしまうけど、嫌いな人にも博愛的だった。私なんかは、「人には知られたくないこともあるでしょう、放っておいてほしいこともあるでしょう」と思うので、根掘り葉掘り問い詰めてバラしてしまうのに引いてしまう部分もあります。さすがに90歳を超えてからの作品はからっとしてきたけど、男女の性愛にそこまでこだわるか?と感じることも多かった。

もし身近にいて、私を親しく思って付き合ってくれたとしたら、みんなに言ってほしいことだけ彼女に話す、というような計算をしてしまったかもしれない、私の場合。彼女自身は計算のない、あけっぴろげで温かい人なのに。

男女の性愛か…若い頃は興味津々だったかも。トラブルもつきものだから、今は静かに穏やかに、何もないところで暮らすのが一番幸せ、となってしまった。

人間に対する興味の持ち方が、私とは違う。私は人がどうありたいか、何が幸せかということを知って、実現する手伝いをしたいと思うけど、その人の日常的なことはまあまあうまくいっていればいいくらいに思ってる。細かい話を聞いても忘れていて、相手が気分を害することがある。ワイドショーには興味がない。でも、そんな仙人みたいな友達が欲しいわけじゃないんだよね、みんな。…とか、この人の本を読むたびに考えてしまうんだよな…。

 

森達也「チャンキ」743冊目

この人の監督したドキュメンタリーはたくさん見てるしノンフィクションの本も読んでるけど、小説を書いてるとは知らなかった。厚い!

冒険RPGのような小説で、つまり村上春樹作品のようでもある。その章に出てくるフレーズを章タイトルにしているところなんかも。多分そこを指摘すると、そういう体裁をとって自分の言いたいことを書くのが意図だと言われそうな気がする。

すごく文章がうまくてストーリーテリングもうまいと思うけど、なんともまどろっこしいのは、最後の落としどころが見えないまま、日常がずーっとずーっと続いていくからかな。短気を起こしそうな気持ちを抑えて、禅の気持ちで(ほんとか)読み進めていくと、だんだん、登場人物に随行しているような不安な気持ちで物語に入り込んでいきます。

読み終わってみて。著者にはこの国がこんな風に見えているのかな。私も、国の統治が及ばなさそうな山奥とか、どこでもいいから外国に逃げ出そう、と思うことがあるから共感もするけど、どこの国の人間も、おおもとはそれほど違わないんじゃないかと思うので、どこに逃げてもしょせん同じじゃないかな。この本の中で日本に蔓延している”タナトス”は、遅かれ早かれ地表全体に広がる。日本だけが特殊だという設定は、ちょっと偏っていると思う。

タナトス”に取りつかれたときのために、まだ意識が残っているうちに自己注射できる強烈な鎮静剤が入ったベルトを常時手首に巻き付けておく。とか、タナトスを偶然生き延びた人の血液から血清を作って、罹患しやすい若い女性から予防注射を打つ、とか、対抗手段を講じる人々の存在も描いてくれたら、もう少し受け入れやすかったかも、と思いました。

 

安部公房「デンドロカカリヤ」742冊目

この本を読むことにしたきっかけは、日本語の「音声学」の授業で”「デンドロカカリヤ」はどんなアクセントで読むか?”という話があったこと。日本語の高低アクセントには法則性があるので、初めて聞く意味の分からない言葉でも、その法則に従って読むことができる。具体的には、この語はド・レ・ミで表すと「ドミミミミミレド」かな。そこを頂点にしてあとは下がる、という「アクセントの核」は2つ目の「カ」にある。ところで、その「デンドロカカリヤ」という言葉は存在するのか?と気になって、ググってこの本にたどりついた次第。

ちなみに実在する植物だそうです。和名は「ワダンノキ」。しかしこの小説のおかげで学名が意外と知られているらしい。小説では、コモン君という名前の平凡な男が、彼女とのみちゆきに失敗してだんだん植物になってしまったらしい。そういえば若い頃、安部公房の「砂の女」、「壁」、「箱男」を読んだ。

この短編集も、今読むと戦後の尖った日本映画みたいな不条理感があるシュールレアリスムで、わりと小難しい言葉、生真面目な表現が並んでいる。最近ずっと熟語や理論の説明が多い中国SFを読んでるけど、あっちには空想のひろがりがある一方安部公房には密室感しかないので、すこし疲れる。安部公房を読む年齢の旬があるとすれば、私は20歳前後だったような気がするのでした。