河口慧海「チベット旅行記」上巻32

会社も学校も夏休みなので、旅行しながらこの本を読みました。日本のお坊さんが1900年に徒歩でインドからヒマラヤの山々を越えて、当時鎖国していたチベットに経文を取りに行くという、とてつもない旅行記実話です。宗教家であることはもちろん、慧海は初めてチベットに入った日本人で、冒険家としても名高い。植物学者で昭和になってからブータン入りした中尾佐助の著書「秘境ブータン」(これは1960年に出版)等でも触れられていて、いつか読んでみたいと思ってた本です。

私が3年前に旅行したブータンは、チベット語の方言といわれる言語を話し、チベット密教の数宗派を信仰している国です。河口慧海の見たチベットは、現在のブータンとイメージが重なる部分も多いです。私(学問的な仏教の知識のない)が見たブータンの人たちは、みな信心深く、マニ車をただ回し続けることによって極楽に行けると信じていました。彼らが崇拝する偉いお坊さんたちは、でっぷりと太っていたりして、もしかしてその地位は象徴でしかないかもしれないけど、彼らの信じる気持ちが宗教を成り立たせてるからいいのだ、という印象を受けたものです。

でも慧海のような、研究を極めているお坊さんからみると、チベットの高僧としてあがめたてまつられている人たちには、驚くほど何も知らなかった人も多かったらしい。(小乗と大乗、妻帯についての考えなど、同じ仏教者でも意見が分かれる部分があるので、彼の言い分だけ聞いてもかたよってるけど。)私から見れば、本当にすごいお坊さんとインチキ坊主の区別はつきません。これはもしかして、欧米の人がみるとカラテもスモウもカンフーも、形が作れる程度の初心者でも、ソコソコ立派に見える・・・というのと同じかもしれない。

何かもわからずただマニ車を回せば幸せになる・・・と信じでまい進することによって、人の心がおだやかになることは、それはそれでいいと思う一方・・・慧海がちゃんと念仏の意味を一つずつ説明して、それを理解すると、彼が「愚民(昔の本なんで)」と呼ぶ民衆の「目からうろこが落ちる」こともあるんだろうな。宗教の専門家がめざしてるのは、本当はそっちだったはず。

旅行疲れをとるためにタイ式マッサージをやってもらってると、マッサージ師が「運動不足や冷房のしすぎでリンパの流れが悪くなっています」。もちろんリンパ圧だかなんだかを調べたわけじゃない。ファインマンさんが愚かしいと切り捨てたリフレクソロジーは、理屈はともかく、よく効くし具合の悪い臓器をよく言い当てる。・・・これは迷信じゃなくて「先人の知恵」だと思う。

迷信と知恵との違いは、

知恵はおそらく、事実(結果)から予兆をたどってみて、それを何年もかけて検証して正しいと思われる程度の確証を得られ、それが根付いてきたもの・・・じゃないのかな。ex 夕焼けの日の翌日は晴れる。

迷信は、「不安」の行き着く先を求めて自由に帰結を想像したものであり、予兆と結果の間の検証がないから、当たるわけがない。

迷信でも信じることで救われればそれでもいい・・・というのは一理あるけど、ちゃんと理解して一歩一歩進むっていう、人間にしか(多分)できない知的な喜びってのを経験するのは、人に生まれた醍醐味なんじゃないかなぁ、とも思う。

けっこう、普段の仕事も、これでいいと思ってこなしてるだけだったりしないかな?

なにかもっと本当に、わかった上でやりたい、と思ったりもします。