向田邦子「思い出トランプ」131

向田邦子は私にとっては、昔は「寺内貫太郎一家」、今は「向田邦子の手料理」で、この人の本を読んだことは実はなかった。お弁当の本を買ったら、曲げわっぱに玄米飯を詰める人たちがみんな「向田邦子の手料理」をお手本にしてるというのでその本を買い、買ってみたらそれに載っている向田邦子の写真があまりにりりしくて美しいので、著書も読んでみたくなった次第。TVドラマ化された「向田邦子の恋文」を見たのも、きっかけのひとつ。

小さい頃に見たNHKドラマの「阿修羅のごとく」はトルコの軍隊の音楽?がテーマ曲に使われていて、ドンシャンドンシャンといううるさい楽隊の音が今でも忘れられないけど、内容は全然覚えてない。そんなのどうでもよくなってしまうほど、「手料理」に載っている白黒の彼女の写真は美しい。肩くらいの髪を中分けにしてマントを羽織ってきりりと歩く姿は、今なら指揮者の西本智美みたいに、女性から憧れられそうな涼やかさだ。

そんな人が何を書くのかと思って読んでみたら、暗くて驚いた。どうやったらあんなに涼しげな人がこんなに人間の深部の隠しごとを書いたり、それを売ってお金を得たりするんだろう。写真を見る前に本を読んだら、これを書いたのは暗い目をした初老の男だと思ったかもしれない。

短編のなかで、だいたいいつも誰かがあまり気持ちのこもらない浮気をする。自分が浮気をしているのに妻のことを疑う。著者の姿を思い浮かべながら読めば、彼らも目元の涼しい美男美女だと想像できるかもしれない。

直木賞作家は純文学ではないのか、という疑問について「あとがき」で水上勉が書いているが、私は向田邦子は純文学 nearly equal 芥川賞作家ではなくてまぎれもなく直木賞作家だと思った。純文学をほめるつもりはないけど、この人には純文学のいやらしさ(わざと起承転「結」をつけずに読者を突き放すところとか)がないし、この人が描こうとしてるのは芸術ではなく人間の俗っぽさだから。

清廉潔白くそまじめな父親がキセルをして駅員にとがめられることは・・・その人の人格を否定するような大罪ではないけど、それを素直に謝らずに、取り繕うことがその人を汚してくんだ、と私は思う。わたしたちが嫌う政治家のズルさ、みたいな世界だ。そういう後ろ暗さや疑い深さがこの人の作品には常にある。

すっきりして見える人にも裏がある、っていうことなのかな。・・・でも裏がこれでは自分を支えきれない。もろくてとても弱い人たちだ。暗い表情をしたり、大泣きしたり、ひとに当たり散らしたりする人のほうが、まだ健康で強い。

という訳で、この人の手料理は好きだし、写真を定期入れに入れたいほど憧れるし、あふれ出る才能も見えたけど、愛読書にはできそうにありません。やっぱり私はまた村田喜代子を読もう・・・・