デヴィッド・グレーバー「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」692冊目

ものごころついたときから、(本当に偉大な仕事は、土から食物を生成する農民なんじゃないか?つまり、それ以外の製造業もサービス業も、それほど重要じゃなかったり、なくてもいいものなんじゃないか?)という思いに取りつかれて、目の前の勉強や仕事に今一つ本心から打ち込めなかった私のような人間にとって、この本は自分に対する答を突き付けられるような偉大な研究(思索?)です。

そんなふうに感じることって、多分あらゆる人にたまには起こることだと思います。現実を見て、(そうは言っても妻や夫や子どもたちや親たちの生活が自分の肩にかかっている)という風に割り切る人も多いでしょう。不運なことに(あるいは自分の力量不足か)家族を持てなかった私は、割り切る必要に迫られなかったこともあって、ふらふらとフルタイムの仕事(かなりブルシット度の高い)を定年よりだいぶ前に放り出してしまったんだけど、それについて「仕事がツライ」とか「人間関係が、、、」といった陰気な理由以外の、本質的な理由をうまく説明できずいます。

逆に、友人や周囲の人たちに「あーわかるわ、私も辞めたい!」と共感されることが多くてすごく驚いたりもしました。そのあたりの、自分だけでなく働くどんな人にもある葛藤も、この本で少し解けてきた気がします。

なるほど感のまま読み進み、圧巻?なのは最終章(タイトル長い)「ブルシットジョブの政治的影響とはどのようなものか。そしてこの状況に対してなにをなしうるのか?」。

p321にこんな文章があります。

”道徳羨望(モラル・エンヴィー)は、十分に理論化されていない現象である。それについて書かれた本があるかどうかも、わたしは知らない。(中略)ここで「道徳羨望」という言葉によってわたしが占めそうとしているのは、そのひとが裕福であったり、恵まれていたり、幸運の持ち主であるがゆえにではなく、そのひとのふるまいが羨望する者自身の道徳的規準よりも高い基準を有しているとみなされるがゆえに、直接的に他者にむけられる羨望や反感の感覚である。その根本には「どうしてあのひとは、(自分の方がわたしよりも優れているとわたしにわかるようなやり方でふるまうことで)わたしよりも優れているということを主張しようとするのか」という心情があるようにおもえる。”

はっとしました。これなんですよ。この意識が、うらやみ、ねたみ、そねみ、いやがらせ、あるいはいじめを引き起こしている。引用が多くなって恐縮ですが、あまりにインパクトがあったので次のページからもう少し。

”よき価値を共有する善人(do-gooders)のコミュニティ内部では、共有された諸価値をあまりに模範的な仕方において示すひとは、脅威と感じられるのである。あからさまに善いふるまい(近年の流行語のいう「善行信号(virtue signaling)」である)は、しばしば道徳的な挑戦と捉えられる。当該の人物が謙虚であったり控えめであったりしてもなんの関係もない”

これを目の当たりにしすぎると、対人恐怖症がくるね。人間って複雑で本当に興味深いけど、自分に向かってこられたら生きていける気がしない。差別やいじめや、攻撃に向かう人間の心理、誰もが一番見たくなかった自分の心の中のドロドロを、とうとう表に引っ張り出してしまったね!という気持ちです。著者あるいは他の人がこのテーマをもっと掘り下げてくれることを望み、自分でもちょっと探してみようかなぁと思います。

ちなみにこの本は最終章で「UBI=Universal BasicIncome(普遍的ベーシックインカム)」に触れていて、それがもしかしたら解決につながるかもしれないとして締めています。「ブルシットジョブ」のブルシット性に着目する人は、楽してばんばん儲けることに意味を見出さないわけなので、共産主義が失敗しなかったらこうなっただろうという本来の「みんな平等」主義に向かうのも納得できます。でも逆に、楽してばんばん儲けることの快感のほうを重視する人は、その生活を維持しつつ、モラル的にも充実感を持てるようになるにはどうすればいいかと考えて、稼いだ分を寄付したり財団を作ったりするんだろうな。それも一つの解決。寄付する気持ちって偉大だし、される側に実益がある。どういう方向性でも、いい気持ちがまん延してほしい。憎しみが世界を覆うような状況はいやだよね…。

この本は、今年度アカデミー作品賞をとった映画「ノマドランド」とその原作「ノマド」と、違う視点で同じ人たちを見つめている気がするので、「ノマド」の方も早く読みたいなぁ。

字だらけで400ページ近くあって、なかなかの重量感だけど、無駄に引き延ばしている感じではありません。噛みしめ、噛みしめ読んだので、じっくり2週間かかってしまったけど、これは読んでよかった。