河野哲「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」726冊目

栗城史多さんの訃報、覚えてる。それまでの準備不十分な登山のしかたや、やたらと人にアピールする感じから、もしかしたら、山で死を選ぶ覚悟だったんじゃないかと思った。いったいどんな風に生きて死んだ人なのか、いつかドキュメンタリー番組やノンフィクションが出たら見てみたいと思ったけど、だいたい気づかずに過ごしてしまう。この本は、高野秀行氏が対談かTwitterで勧めてたおかげで発見できました。彼の書くものは100%すごく面白いけど、彼が勧めるものも同じ。この本からは、河野さんが栗城さんをじっと見つめて、しぶとく、しぶとく取材を尽くしたエネルギーが伝わってきます。

栗城さんが見せようとした「夢」は、平和で穏やかでしあわせなものではなくて、テクノでいうレイヴとかトランスみたいな、周囲の状況も自分もわからなくなるような高揚感、だったんじゃないかな。およそその中でずっと一生過ごしたりできそうにない、非現実的な世界。彼は登山を始める前から、生きることってしんどい、ずっと幸せで(高揚して)いることって難しい、いつどうやって死ねるかな、と考えながら生き続けたんじゃないのか。

彼のやり方はイヤだな、と感じる…虚構や過剰だらけで落ち着かない…けど、実は完全に共感できる気もするんだ。規模感は全然違うけど、私も故郷では足りず上京してきたり、アイスランドやら南アフリカにまで旅行したりする。本や映画の感想や旅行記をブログに書いたりする。もともと低血圧で常にテンションが低く、小さい頃はおとなしいとか暗いとか言われていた影響で、大人になってからは人前では常にテンションを保とうと、カラ元気とかカラ回りとかしがち。何か盛り上げなければ、という焦燥感というか使命感のようなものが根源的にあって、いつも疲れている。楽になりたいという気持ちと、辞めたら終わりという気持ちが心の中で戦ってる。高山に挑戦して億単位のスポンサーを必要としたり、全世界に発信したりする人と規模感は天と地ほど違うけど、似ているとか共感というより、私と同じという気がする。

注目されることは麻薬だ。誰も自分を見なくなってからの人生を、どう生きればいいか。長年勤めた会社を定年退職したあととか、世界中の誰でも直面する課題なんじゃないだろうか。

栗城さんの生前をしぶとく追った河野さんは、打ちひしがれてカッコ悪い彼、弱音を吐く彼こそを一番見たかったし報道したかったんだろうな。弱みを見せると楽になる部分もある。でもそれが新しい麻薬にもなりうる。誰も見ていない自分を肯定することって、SNSの世の中で、重要性がすごく増してきたんじゃないかな、と思うのでした。