<この本および映画化作品の内容にふれています>
「ドライブ・マイ・カー」を見たので再読してみました。
映画の原作になっているのは「ドライブ・マイ・カー」のほか「シェエラザード」もだけど、「木野」の中の妻の浮気を発見する場面も使われてました。でも、映画と全然違った!というのが感想です。そりゃそうだよな、村上作品にカタルシスの場面なんて見たことない。映画は、設定でいうと俳優「兼演出家」だけど小説では俳優。だから演出をしに東京を離れることもない。妻も脚本家ではなく俳優。名前はない。ヤツメウナギは「シェエラザード」の方に出てくるけど、物語を語るのは、どこかの家に幽閉されている男の家に毎週食料などを届ける主婦だ。妻の愛人、高槻が語る「物語の続き」は濱口監督の創作だったし、そもそも、高槻と主人公が「対決」する場面は原作にはない。ただ表面的なことを話して酒を飲むだけだ。高槻は妻子持ちの中年男性だし、事件を起こすこともない。渡利みさきのキャラクターは原作とまったく同じだけど、まさか広島(あるいは東京)から北海道までドライブすることはない。
つまり映画は、この本をモチーフにして濱口監督が作った「二次創作」なんだな。「ノルウェイの森」や「ハナレイ・ベイ」「トニー滝谷」のいずれも、かなり原作に忠実に作られてたんだなと改めて思う。
映画「ドライブ・マイ・カー」の対極にあるのが、この短編集の中の「木野」だなぁ。昔の村上作品にいつもあった、この世のものではない、執拗につづく「悪」からのコンタクト。これ読んだ後、しばらく引きずるというか、頭に残るんですよね。ホラー映画のなかでも、訳が分からなくて忘れられなくなる、B級トラウマ映画の結末みたいで。
立て続けに身の回りに不幸があったりすると、なにか自分に原因があるんじゃないかという考えに取りつかれて、心の平穏が遠のく。村上春樹作品はアウトサイダー・アートの世界最高峰みたいな面もあるのかもしれない。これも、いつも「中二」とか言ってたのも、揶揄するつもりではないです。今はアウトサイダー・アートにしか興味がなくて美術館にも行かなくなってしまった。あたまで考えたことではなく、人の心の中から出て来たものには凄みがある。
村上作品は、夢中になって読むのにストーリーも結末も思い出せないのが多い。少し前の長編を読み直してみたくなりました。