桜庭一樹「少女を埋める」862冊目

小説には、事実関係や登場人物たちの気持ちをくっきり明確に描くものと、ぼかして描くものがある。「少女を埋める」は自伝的小説なので主人公から見た事実と彼女自身の気持ちは明確だけど、それ以外の人たちは他人として描かれるので事実関係も気持ちも明らかではない。

主人公の母が父を長い間介護してきた時間が幸せだったことと、その父に「虐めてごめん」と話しかけたことは事実として書かれてるので、「虐めた」のは父が病気になる前のことかな、そうは言っても女は弱い立場だったとも母は話してるので、母自身が抑圧を感じたときなどに父に強い言葉で対抗したことでもあったんだろうか、と想像した。

それにしても事実関係がわかりにくい、想像しにくい小説だった。わざとぼかしてる部分もあるんじゃないかな?あるいは、主人公は母のことを完全には理解できないので、そもそも不明が不明のまま書かれていたのか。でも不明だらけの小説は、ファンタジーなら面白いかもしれないけど、あまり曖昧なことが多いと共感しづらくなると思う。

こんなことを私ごときがブログに書くときも、今は小説家本人やご家族が読むことを想定して配慮すべきなんだろうか。それとも、「王様の耳はロバの耳ー!」と叫ぶための秘密の井戸の側面もあると思っていいんだろうか。今は多分後者なんだろうね。

「キメラ」に書かれた、ときに過剰なんじゃないかと思う著者の心配は、自分なら大いにありうると思う。メールを書いた後に書かなきゃよかったんじゃないかと心配になって眠れなくなったりする。(次元が違うけど)だから私は書くことが好きなのに、プロの書き手になるのは怖い。

評論家のほうの感覚は、ワイドショーのレポーターみたいだな、という気がする。言われなかったことを、自分が生きてきた中で身についた感覚をもって補って、言われたことであるかのように解釈するのが普通になってる。多言語で書かれたものなら解釈を誤ることもあるだろうけど、日本語だから正しく解釈できると思ったのかな。ネットには誤読があふれてる。

あと、人が誤るのは普通のことで、失敗を指摘されたら素直に謝るのがベストなんだけど、不景気だからか不寛容さが世の中にあふれてる。イントレランスだ。著者は自分に厳しく、人に対しては厳しくしないけどすごく神経が鋭敏で感受性が繊細なように見える。ほんもののお母様のことを考えてご本人が一番傷ついてるような。

批評を書いた人も、自分の読み方を否定されることが心の傷になるような、これまでの積み重ねがあったのかな。

こういう議論が紙の上やネットの上で起こるんじゃなくて、人についての造詣の深い司会者がうまくとりなしてくれるトーク番組で行われたんだったらよかったのにね。