アリスン・モントクレア「ロンドン謎解き結婚相談所」737冊目

新刊リストを眺めていたらこの本を見つけて、タイトルと表紙に惹かれて読んでみました。第二次大戦直後のロンドンの、廃墟の中に残ったビルの4階で”ロンドンで2つめの”結婚相談所を始めた若くて美しい二人の女性。一人は元スパイで、もう一人は夫を戦争で亡くしている。二人の出会いはお互いの知り合いの結婚式で、新郎新婦の人となりやマッチングの妙について話しているうちに意気投合し、相談所を開くに至った…というエピソードも、ワクワク感となるほど感が絶妙です。

いわゆる”本格ミステリ”ではないので、真犯人像やトリックは「?」という部分もあるけど、人物造形が生き生きしていて、その時代のロンドンを素敵に想像した感じがとても良いです。たぶんこの著者は、戦争にリアリティを感じない若い人じゃないかな。外国人が想像した日本、みたいに、多分現実と違うけど想像たっぷりの魅力があるので。

ただちょっと、原文を生かそうとしすぎた翻訳が少し読みづらいのと、ロンドンならではの習慣や地名、食べ物なんかの訳注がまったくないので、なんとなく雰囲気で読んじゃうのがちょっともったいない気もします。訳注があったとしてもリアルに想像するのは難しいので、映画化してくれたらなぁ…なんて思ったりします。きっとカラフルで素敵な作品になると思います!

 

中川ワニ「家でたのしむ手焙煎コーヒーの基本」736冊目

前に通販で「コーヒー焙煎入門」みたいなのをやったことがあるのと、生豆が焙煎したものより圧倒的に安いことから、半隠居後はひまなときにいつもコーヒー豆を焙煎しています。映画みながら、テレビみながら。焙煎のやり方は、もう体で覚えるしかない。豆はなまものだし生き物なので、今回うまくいったと思っても、同じ豆であっても全く同じような焙煎は二度とできない(まだ腕がない、というのもある)。ずっと試行錯誤してるけど、ときどきヒントを探してネットを検索したり。

先日「青春18きっぷ」でなんとなく行ってみた軽井沢の美術館のショップで、なぜかこの本を売ってたので、買ってみたわけです。オールカラーのこじんまりとした本。やっと、ゆっくり家でひもとく余裕ができました。

ネットの情報は、How toが多い。焙煎前に豆を洗うべきかどうか、何分以内に洗うのか、焙煎のときの火の強さや時間は、「一ハゼ」と「二ハゼ」をどうとらえるか。。。豆の具合や水分量によって違うから、時間だけ計っても意味ないんだよな。かといって自分で「今だ!」と思えるほどの感覚はまだない。

著者の方が、インドネシアで現地に住む人のお宅に行って豆を焙煎してみんなで飲む、というお話なども載っていて、結局のところ、豆とも人間ともきちんと向き合って大切にすることがキモなんだなと思いました。焼き色をつけるんじゃなくてちゃんと火を通す。ちゃんと時間をかけて、カリカリの香ばしい豆に焼き上げることができればOK。と理解しました。

コーヒーの淹れ方も、ついつい雑になってしまってたなと思ったので、今日のおやつタイムからもう少し丁寧にやってみようと思います。

良い本です。本棚にずっと置いといて、気持ちがささくれ立ってきたら、また開いてみようと思います。

 

阪口ゆうこ「片付けは減らすが9割」735冊目

ぐっと軽い本を読んでみる。私も常にモノ(あるいは、モノの山)に囲まれてるほうの人間で、常にやりたいことがたくさんあったり、ファッションにこだわりがないから安くて良さそうだと思うと、対して愛着もない服をどんどん買ってしまったりする。たまに、買わないはずなのに溜まってる本やCDをまとめて売ると、「捨てハイ」に陥る。

そんなあいまいな私にこの本は「ものの量にこだわってる人は、多くても少なくても結局とらわれてるのよ!」と言ってくれました。モノじゃなく、自分主体で片付けましょう!という。…私も、長年片付ける努力をするうちに、小説を買わなくなった(なるべく借りてる)という進歩はあった。隙間が多くなると、新しいことを始めようと思うようになる。その調子だ、私。

しかし診断をやってみたところ、「不要なオマケがついたものを買ってしまう」「クローゼットの中がぐちゃぐちゃ」「掃除を始められない」「紙袋や保冷剤がどっさり」おおぅ…(涙)

掃除できないこと、見かかってるパンフレットとかの紙類が常に累積する、あと、とにかく服。洋服を買うセンスもないしコーディネートも下手だし、だいいちポリシーがない。選べてない。これはまず、自分が自分の見た目をどうしたいか決めることが必要だな。

片付け方でも何でも、言われた人が不愉快になることを言って、自分だけいい気持ちになってはいけない。この本にはそういう、著者の強い気持ちが感じられます。でも本当にその通り。今って正しさを振りかざす人でいっぱいになっていて、私自身そういうところもあったと思うけど、自分にも人にも優しくすることが大事だと、みんなわかってきている。

今のゆるゆるのペースで、少しずつ、気持ちよく、片付けを続けようと思えた本でした。ありがとう。

 

劉慈欣「三体Ⅲ 死神永生」733~734冊目

読んだ―、読み切ったー。ものすごい熱量の大長編。読み切った私の満足感がこれなら、書き切った作者の達成感はどれほどのものだろう。もう、SFは三体シリーズだけ読めば十分、といってもいいかもしれない。いやもちろん、最近の中国系SFだけでも大変な傑作が連なっているし、私みたいな読書の虫はこれからもどんどん読むわけですが、一つの世界、ではなく一つの宇宙を本の中に作り上げた「三体」シリーズの充実度はほかと比べられないほどで、名作を数冊だけ読みたいという人がもしいるなら、このシリーズだけでも読んでほしいという趣旨です(「だけ」というには膨大な量だけど)

膨大といえば、たとえば司馬遼太郎の小説とボリューム感が近いのかな。司馬遼太郎は読むけどSFは読まない、という人がいたらぜひ読んでみてほしいです。

テクノロジーと革新、血のつながりと他人との情愛、人間たちの協力とと背反、希望と絶望と「死より辛い生」…甘くない未来を、選んだのは結局のところ人間だ、という苦い世界観じゃなくて”宇宙観”。

シリーズ最終巻でもう一度、三体世界の人たちがその後どう生き延びたかを見たかったなぁ。書き切った感はあるけど、やっぱり派生シリーズを書き続けてほしいですね。

 

 

李琴峰「ポラリスが降り注ぐ夜」732冊目

彼岸花が咲く島」で感銘を受けて、この作家の作品を順次読み進めています。

この本は、新宿二丁目LGBTの集まる街の小さな「L」バーに集う人々のそれぞれの暮らしを、温かいまなざしで描いた短編集です。

田舎の中高生だった頃、ロンドンの地下で夜な夜な繰り広げられる派手なパーティ、鋭いセンスを持ちビューティフルな生活をする人々、とかにすごく憧れたもんでした。いい大人になった今、そういう生活はちょっと空しくも感じられて、もう羨望は感じなくなったけど、美しく個性的な女性たちが集う二丁目のバーには、昔みたいな憧れを感じるなぁ。自分のアイデンティティを太く持っていて、それを軸に生きていけるというだけで美しいと思う。傷ついても、傷ついても。

二丁目には昔、ゲイの友人に連れて行ってもらったことがあったな。90年代にはまだ女性が少なかったんじゃないかと思う。あの頃がいちばん、LGBTカルチャーの近くにいた。

「あとがき」に書いてあったように、まず「新宿歴史博物館」に行ってみようかな…。

 

ジェシカ・ブルーダー「ノマド 漂流する高齢労働者たち」731冊目

やっと読めました。映画を見てからずっと読みたかったやつ。映画では、フランシス・マクド―マンド演じる「ファーン」とデヴィッド・ストラザーン演じる「デイヴ」以外はリアルなノマドの人たちが素で出てるように見えたけど、役に近い素人が完全に”演じる”形だったんですね。素敵なスワンキーおばさんをみんなで悼む場面がすごく良かったんだけど、生きててよかった(笑)。今更ながら、クロエ・ジャオ監督の前作「ザ・ライダー」と同じ作り方だったんだなと納得です。

ファーンが家を出た理由となっていた「工場の閉鎖に伴う城下町の消滅」は、実際に起こっていたけど、それが理由で路上に出た人には著者が出会えなかったらしい。だからそこのエピソードを新しく書きおこしたみたいだけど、ファーンが月ぎめで借りていた倉庫の荷物をほとんど処分して身軽になった場面は、リンダ・メイのエピソードを参考にしてましたね。

1990年代にアメリカに仕事で移住した友人が言うには、たいした審査もなく誰も彼も家を買っている。ローンヒストリーがないと何もできないから、現金で払えるのにいちいちローンを組む。…おかしな経済だなと思ってたら、家の借金を返せない人がたくさん出て来た。規模感を見ただけで、借りる人だけの問題じゃないことがわかる。

映画ではアマゾン倉庫やキャンプ場の仕事は、本に書かれているよりずっと楽しそうだったし楽そうに見えた。そこはフィクションとして抑えたのかもしれない。だからかな、私がこれほど映画の中の世界に心酔してしまったのは…。彼女たちよりはだいぶ若いけど、とてもじゃないけどこれほどの労働は私には無理だ。精神的にではなく、肉体的に働けなくなった人たちはどうなるんだろう。キャンプサイトでときどき起こる自殺には、そんな理由の人もいるだろうか。

読み終わっていろいろ検索して感想や記事を読んだら、「日本人にはこういう開拓者精神がないから、高齢者はノマドにもなれない」って書いてあるものもありました。開拓者精神がある人もいると思うけど、社会全体を俯瞰するとその通りだと思う。今の日本では、生活保護でフルタイムでバイトするのに近い金額がもらえるのは、国民皆保険と同じくらいすごいと気づく。ちょっと不安になる。国は膨大な赤字を抱えて、立ちいかなくなる日がいつか来る。サッチャー政権がやらなければならなかったことを、やれる首相は日本にはいないかもしれない。でも日本はアメリカになることは拒否し続ける。こういう財政難を乗り切る方法ってあるのかな。あるとしたら突然数百年分の石油が出る、とかかな…でもそしたら日本がドバイになるだけかな…(政策のような難しいことを、考えてみようとしたおかげで、まとまらなくなってる)

思うに。ノマドは実はすでに日本にはたくさんいるのだ。高齢者はタダみたいな値段で売られているスキーリゾートマンションに移住し、比較的若い人たちはネットカフェを出て、改造もしてない自動車で暮らしてる。24時間営業の店の駐車場で寝て、コンビニやファーストフードでご飯を食べて、トイレを借りてる。開拓民のようなたくましさや連帯感がなくて、なんとなく自分が悪いようなカッコ悪いような気持ちで、それぞれ孤立してる。私に、壮大な自然の中で、ひとりを嚙みしめながらコーヒーをわかして飲む強さはあるだろうか。どんなときにも負けない、優しくて強い庶民でいられるだろうか。

日本の経済が破綻したら、まず生活保護とか減らされるんだろうな。将来に備えて私も、野草の見分け方とか料理の仕方とか、今のうちに調べておくか…(キノコは見分けられないらしいので、やめとく。って何の話でしたっけ)

 

村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」730冊目

<映画とこの作品終盤の筋に触れています>

映画「ドライブ・マイ・カー」を見た→原作の短編集「女のいない男たち」を読んだ→なにかまだ抜けている気がして、新しめの長編を読み返してみたくなりました。結果、読んでよかった。「ドライブ・マイ・カー」の原作というか元ネタは表に現れている短編「ドライブ・マイ・カー」「シェエラザード」、チェーホフ「ワーニャ伯父さん」だけじゃなくて、同じ短編集の「木野」という短編の妻の浮気発見の場面も使われていたし、あの映画の重要な”癒し”の場面はこの作品から来たものかもしれない気がします。

多崎つくるの高校時代の親友のひとり、エリは結婚してフィンランドに住んでいる。若い頃に自分を傷つけた事件の真相を探りながら、彼はフィンランドの彼女を訪ねる。彼女の容貌はいわゆる美人ではなくて健康的でたくましく、胸がすごく大きい。その彼女と、傷ついた過去について告白しあって二人はハグして泣きます。この場面だけ見ると、家福がみさきの雪深い故郷をはるばる訪ねて、そこでハグしてそれぞれの過去と和解する、映画「ドライブ・マイ・カー」のクライマックスと同じに見える。

こんなカタルシスの場面なんて村上春樹の作品にはないだろう、いやあったっけ?と思いながら映画を見ていたんだけど、読み直してみたのがこの作品で当たりでした。濱口監督ほんとすごいな、多分村上作品全部読んでいて、すごくよく、丁寧に熟成させてブレンドして映画を作ったんだな。一つの作品をさらっと見ただけで、安易に、わかったような批評をすることの薄っぺらさを自分で思い知った気がします。

そして、「好き」だと思わないし、読み終わると筋を忘れてしまうのに、出ると読まずにいられない、読みだすと読み終わるまで止まらない、という村上春樹作品について、少しずつ、少しずつ、本質に近づいていけてるのかなという、この感覚がたまらないですね。

(今は、村上春樹は「神の視点」をもった作家ではなくて、ムンクみたいに心の闇を描き続ける天才、みたいに感じてる)