アニー・エルノー「シンプルな情熱」868冊目

恋する人間の女性の感覚を研究した論文みたいな小説だった。

脳梗塞の発作を起こした脳科学者が、自分を研究対象にした論文を書くのと同じだ。プロフェッショナルな研究者が、専門領域(この著者はフランス文学の教授資格を持ってる)に該当する事態に自分がおちいったとき、ひとりの人間としてその対処におぼれる一方で、その状況観察が面白くて仕方がなかったんじゃないかな。

誰でも経験する平凡な性愛と、経験している心の動きを克明に見つめてそのまま叙述する非凡なまなざし。描写はわざとかなと思うくらい、てらいなく普通だ。(そこがまた論文っぽい)

不倫にしか人生の楽しみを見いだせない人たちはつまらない人たちだと最近考えてたけど。見方を変えると、自分の外側にあるもっと面白い目新しいことを追う人(私だ)より、自分がものごとにどう反応するかというささやかなことに注目して飽きることのない人のほうが、人生を狭く深く味わってるのかもしれない。この本を読んでそう思ったりする。

近場の温泉地に出かけるお金もなかったころの自分の、身近な人たちと濃い人間関係を保ってた感覚を、一瞬思い出した。

醒める方向へ向かい始めたパッションを緻密に書き付けて人と共有するのって、人類の悩みの寛解に役立てられそうだし、共感してもらえれば書いた本人のカタルシスにもなるだろうけど、だんだん不安が勝ってくる、そういう心の流れまで克明に書く勇気がすごい。

そんなに冷静な人でも性愛に溺れるのがすごい、溺れてるのに冷静に書けるのがすごい。

なんだか、自分は人間(動物という意味で)らしさをなるべく無くして、平板で均整の取れた人形を目指してたような気がしてくる。恋愛って本来は、罪悪感を感じなければならないものではないんだよな。異性との恋愛じゃなくてもいいけど、まだもうしばらく生きていく中で、何かに突き動かされるような出会いがもう一度くらいあってもいいかな、と思いました。さすがのノーベル賞。普通の人間の何段階か上からの視点で書かれた傑作です。

 

室橋裕和「ルポ コロナ禍の移民たち」867冊目

「ルポ新大久保」がとても面白かったので、新作もさっそく読んでみます。

こっちは日本で暮らすさまざまな移民がコロナ禍のなかでどんなことに不自由したり、逆に奮起したりしているか、著者が日本各地へ出かけて行って直接体験し、お話をしてまとめています。

これも面白かったですねー。日本で生まれ育つと元気がなくなっちゃうんだろうか、と思うくらい、タフで頼もしい人が多い。それに、移民の目で今の日本を見ると、おかしなことがたくさん見えてくる。

移民問題って”悲惨な事件をたまに見る”と感じてる人も多いと思うけど、すでに彼らは日本の日常。悲惨な事件がけっこうな数あるのは悲しいけど、彼らの元気な部分を見る機会は少ない。たくさん問題のあるこの国で生活する仲間ですからね。自分と違うものが自分の理想と違う生活をしていることを認めて、お互いに邪魔せず、うまいこと共存するために、何か自分もできたらなーと思います。

 

カレル・チャペック「マクロプロスの処方箋」866冊目

すっごく面白かった。カレル・チャペックがこんな戯曲を書いてたなんて、驚いてしまう。

彼の「山椒魚戦争」を読んだらファンになってしまい、RURやらダーシェンカやらも読んだしチャペック展にも行った。(※この間20年以上たっている)確かに彼は優れたストーリーテラーだ。でも、こんなに短くてインパクトのある戯曲を書く人だなんて全然知らなかったので、驚きつつちょっと感動してる。といったところです。

(以下ネタバレあります)

結末を知った上で読んでも面白さが損なわれない作品だと思うけど、知りたくない方は読み終わってから以下をご覧ください。

不老不死で名前をどんどん変えながら生きているけどイニシャルだけは同じ、と聞くと「ジョジョの奇妙な冒険」を思い出したり「ポーの一族」を連想したりしてしまうけど、似て非なる内容。主人公である美女エミリア・マルティの投げやりな物腰や信じがたい博学が、最終章で解き明かされるミステリーでもあります。すごく面白かったんだけど、これ今舞台や映画にしたら、使い古されたネタだと感じるかなぁ。最初に刊行された1922年には相当新しかったと思うし、今読んでもイケルけど、映像にしたとたんに陳腐になりそうな気もする。やり方次第か。

最初に知ったのが偶然だったので、あまり知られていない、自分にとって身近な作家のように感じていたのが、どんどん大きくなって、今はチェコ屈指の大作家だということを知ってしまっている。だけどこの本を読んでまた、「誰も知らない名作を見つけてしまった」ような錯覚を感じて不思議な感慨にふけっているのでした。

 

室橋裕和「ルポ新大久保~移民最前線都市を歩く~」865冊目

新大久保、先日もベトナム料理を食べてきました。行くたびに、どの店で何を食べたらいいか悩む。が多すぎて苦手って思ってたけど、いつの間にか気軽に行ける町になってた。一時期「ギー」を買いにイスラム横丁に通ってたのと、大久保図書館をたまに使うようになったからかな。なんとなく行くと圧倒されるけど、用事があるときに行くとエネルギッシュで刺激される、不思議な町。

この本はすごくよかった。あまりにも掴みどころがなくて、迷いがちな町を少し解き明かしてくれた感じ。今日も行ってみようかな。ネパールカレー食べてこようかな。3年近く海外旅行に行ってないけど、近くにある異郷をまた訪ねてみよう・・・。

(この本が出た2020年から店はかなり入れ替わってます!)

 

筒井康隆「残像に口紅を」864冊目

いいなぁ筒井康隆。年とったら、映画「ハロルドとモード」のモード婆さんのようになりたいと思ってる私ですが、男だったら筒井康隆もいいなぁ。誰の言うこともきかず、面白いことをやり続けたいもんです。

この小説も大笑いしながら読みました。表現から徐々に”やまとことば”が減って漢語や擬態語ばかりになっていく。漢語って、使われてる音数が少ないんだろうか、あるいは少ない音数で構成される同音異義語が多いからこうなるんだろうか。おかしいな、とは思うけど、全部の言葉の意味がわからないながらも、なんとなくちゃんとストーリーが進んでいくようなので、書いてる方の苦労を気にせず、おやつでも食べながら楽しく読み進めてしまいました。そこまでで終わらず、うまく語を繰り出せない市井の人々も登場して、ちゃんと”俺ってすごいだろ”示威を行わずにいられないのは、この小説にして初めて触れられたという著者(佐治)の強烈な両親の影響もあるんだろうか・・・。

文学史において誰かが一度しかやれない(二度目をやってもいいけど相当勇気要るぞ)実験をまたやってくれて、やっぱり筒井康隆は面白いのでした。1989年ってもう33年も前だけど、この人の作品史をたどるのは、今からでも遅くない。

ところで、見覚えのある表紙の男性の表情、やっぱり船越桂だった。平面でも同じ表情。でもなんでこの絵が表紙なんだろう。実態を失いつつある世界のはかなさを表現してるのかな。

 

今村翔吾「塞王の楯」863冊目

これは面白かった!すごいですね、この作家。城壁が複雑な職人技で作られていることは知ってたけど、その世界をここまでふくらませて構築するとは。大変読み応えあり、先を急いで読んでしまうエンタメ性もあります。変な比較だけど、最近の中国SFの強豪たち、ケン・リュウとか劉慈欣とかがオリジナルの世界を繰り広げる力量に匹敵するくらいの説得力がありました。この人時代ものしか書かないのかなぁ。近未来SFとかも読んでみたいな。

登場人物の、過去からの積み重ねを経た人物像がしっかり重みを持っていて、どこまでが史実なんだろう?と不思議に思う。ググってみたら、武将たちや戦の成り行きはほぼすべて史実みたいですね。城壁作りと鉄砲屋の当時の実態も、可能な限り調査したんだろうな。その上で、2つの陣営のパーソナリティや出来事は全部フィクションだ。最初から最後まで、なるほど!そうきたか!と驚きつつ納得する戦略のかずかず。締めくくりもきれいで、甘ったるい情緒に流れずぴしっと決まりました。この作品の直木賞は、きっと意見が分かれなかったんじゃないかなー(想像)。

立体で見てみたいけど、映画一本では物足りない。「塞王」を主役に、大河ドラマ作ってくれないかな?というスケールの大きさでした。拍手喝采

 

 

桜庭一樹「少女を埋める」862冊目

小説には、事実関係や登場人物たちの気持ちをくっきり明確に描くものと、ぼかして描くものがある。「少女を埋める」は自伝的小説なので主人公から見た事実と彼女自身の気持ちは明確だけど、それ以外の人たちは他人として描かれるので事実関係も気持ちも明らかではない。

主人公の母が父を長い間介護してきた時間が幸せだったことと、その父に「虐めてごめん」と話しかけたことは事実として書かれてるので、「虐めた」のは父が病気になる前のことかな、そうは言っても女は弱い立場だったとも母は話してるので、母自身が抑圧を感じたときなどに父に強い言葉で対抗したことでもあったんだろうか、と想像した。

それにしても事実関係がわかりにくい、想像しにくい小説だった。わざとぼかしてる部分もあるんじゃないかな?あるいは、主人公は母のことを完全には理解できないので、そもそも不明が不明のまま書かれていたのか。でも不明だらけの小説は、ファンタジーなら面白いかもしれないけど、あまり曖昧なことが多いと共感しづらくなると思う。

こんなことを私ごときがブログに書くときも、今は小説家本人やご家族が読むことを想定して配慮すべきなんだろうか。それとも、「王様の耳はロバの耳ー!」と叫ぶための秘密の井戸の側面もあると思っていいんだろうか。今は多分後者なんだろうね。

「キメラ」に書かれた、ときに過剰なんじゃないかと思う著者の心配は、自分なら大いにありうると思う。メールを書いた後に書かなきゃよかったんじゃないかと心配になって眠れなくなったりする。(次元が違うけど)だから私は書くことが好きなのに、プロの書き手になるのは怖い。

評論家のほうの感覚は、ワイドショーのレポーターみたいだな、という気がする。言われなかったことを、自分が生きてきた中で身についた感覚をもって補って、言われたことであるかのように解釈するのが普通になってる。多言語で書かれたものなら解釈を誤ることもあるだろうけど、日本語だから正しく解釈できると思ったのかな。ネットには誤読があふれてる。

あと、人が誤るのは普通のことで、失敗を指摘されたら素直に謝るのがベストなんだけど、不景気だからか不寛容さが世の中にあふれてる。イントレランスだ。著者は自分に厳しく、人に対しては厳しくしないけどすごく神経が鋭敏で感受性が繊細なように見える。ほんもののお母様のことを考えてご本人が一番傷ついてるような。

批評を書いた人も、自分の読み方を否定されることが心の傷になるような、これまでの積み重ねがあったのかな。

こういう議論が紙の上やネットの上で起こるんじゃなくて、人についての造詣の深い司会者がうまくとりなしてくれるトーク番組で行われたんだったらよかったのにね。