恋する人間の女性の感覚を研究した論文みたいな小説だった。
脳梗塞の発作を起こした脳科学者が、自分を研究対象にした論文を書くのと同じだ。プロフェッショナルな研究者が、専門領域(この著者はフランス文学の教授資格を持ってる)に該当する事態に自分がおちいったとき、ひとりの人間としてその対処におぼれる一方で、その状況観察が面白くて仕方がなかったんじゃないかな。
誰でも経験する平凡な性愛と、経験している心の動きを克明に見つめてそのまま叙述する非凡なまなざし。描写はわざとかなと思うくらい、てらいなく普通だ。(そこがまた論文っぽい)
不倫にしか人生の楽しみを見いだせない人たちはつまらない人たちだと最近考えてたけど。見方を変えると、自分の外側にあるもっと面白い目新しいことを追う人(私だ)より、自分がものごとにどう反応するかというささやかなことに注目して飽きることのない人のほうが、人生を狭く深く味わってるのかもしれない。この本を読んでそう思ったりする。
近場の温泉地に出かけるお金もなかったころの自分の、身近な人たちと濃い人間関係を保ってた感覚を、一瞬思い出した。
醒める方向へ向かい始めたパッションを緻密に書き付けて人と共有するのって、人類の悩みの寛解に役立てられそうだし、共感してもらえれば書いた本人のカタルシスにもなるだろうけど、だんだん不安が勝ってくる、そういう心の流れまで克明に書く勇気がすごい。
そんなに冷静な人でも性愛に溺れるのがすごい、溺れてるのに冷静に書けるのがすごい。
なんだか、自分は人間(動物という意味で)らしさをなるべく無くして、平板で均整の取れた人形を目指してたような気がしてくる。恋愛って本来は、罪悪感を感じなければならないものではないんだよな。異性との恋愛じゃなくてもいいけど、まだもうしばらく生きていく中で、何かに突き動かされるような出会いがもう一度くらいあってもいいかな、と思いました。さすがのノーベル賞。普通の人間の何段階か上からの視点で書かれた傑作です。