杉井光「世界でいちばん透きとおった物語」1023冊目

タイトルからは、いまどきの若い人が書いたエモいミステリーかなと思う。そういう趣もないではないけど、感覚的、感情的な文体ではないし、ストーリーは一貫してる。それより何より、読んでいる途中でソレに気づいたときの鳥肌が、この本の読書体験の最高の瞬間ですね。

ほんとに、ご苦労様でした・・・関係者のみなさま。私こういうの嫌いじゃないです。

影響を受けたというある作家の作品がどうしても気になって、ググって見つけました。そっちも読んでみます。

これ必要?と言われたら・・・そもそもミステリー自体、生きていくうえで必要なわけじゃないし、昨日「地下鉄謎2024」を友達と解いて満足したばかりの私から見れば、これこそが人生を輝かせる楽しいムダですね。今日も満足です。

 

島田荘司「占星術殺人事件」1022冊目

面白かった!読み応えあった!

トリックは確かに大胆不敵、しかも犯人が・・・。読み始めたときは「魍魎の匣」みたいなオカルトっぽいミステリーだと思ったし、そういう雰囲気をかもし出すために設定を昭和初期にしたのかなと思ったけど、トリックの設定上も必要だったんだな。それを知った上で、40年間も解かれなかったミステリーを変わり者の占い師探偵が解くという構成はすごく魅惑的でした。

これ、多分「史上最大のトリックベスト10」みたいな何かで見て読んでみようと思ったんだけど、なるほどの充実感でした。文中2回「読者に挑戦」という場面があるけど、真剣に作家と対峙するより、流されて読んで「すっごーい!」と喜ばせていただきました。大満足です。

ところで・・・これに登場するのと同様の偽札事件って私の地元で起きたことがあって、大きな看板をかかげたその人の店舗のことを思い出しては、(夜な夜な作業してたんだな・・・)と思ったものでした。これ自体は、時代に関係なくできるトリックだから、昭和初期の事件であっても説得力あります。

誰かが勧める本を読んだり映画を見たりするのって、やっぱりいいな。自分では出会う機会がなかった世界に出会えて。読みたい本がまだ山積みだわ。

 

佐々涼子「夜明けを待つ」1021冊目

この人の文章ってすごくきれい。母親が少し上から見下ろしてるようで、やさしくて正しい。なんとなく、佐々涼子ってきっと、すごくきれいな声の人なんじゃないかと思う?

死がちかづいてくるから死を思うのかな。私はいつも死にそうだった母のことを見てたから、子どもの頃はいつも死のことばかり考えてたのかな。母が亡くなってからは、生きることばかり考えてる気がする。といっても、父と母の寿命を考えると(足して二で割る、というあまり根拠のない計算)このままいくとだいたい70前には死ぬから、あと何年生活費があればいいのか、とか計算してる。

日本語教師って、まっとうで賢くて常識もあるけど堅苦しすぎず、いい人が多いなぁと(一般論としては)思ってる。その中に入っていくと自分はちょっと異物感ある気がする。(学生たちと自分、という場ではそれほど違和感は感じないんだけどな、私は・・・。)

私は、自分には現実を変えることはそもそもできないと思うようになって、変えられなかったことに悔恨は持たなくなったと思う。私が22歳のときに母が亡くなる頃までは、がんばれば世界を変えられると思ってがんばってたけど、ぷっつりとやめた。その後30年もたってから、私の父は胃ろうをせずに亡くなったけど、そのときすでに認知症がかなり進んでた。私は父の手をにぎって、ずっと笑って、だいじょうぶだよお父さん、よくがんばったねって、子どもをあやすみたいに見送った。達成感すらあった。人は自分の自然死の時期を選べない。私は自然にさからうほど生意気じゃない。

日本語をじゅうぶんに学ぶ機会のなかった人たちに日本語を教える、ということは、私の余生のライフワークのひとつ。必要だからやる。自分にもできそうだからやってみる。時間が余っていて、それほどお金はたくさん要らないから、やる。やるべきだと信じることをやっていられる幸せをかみしめる。無理に定年まで会社勤めをしなくてよかった。やめたい自分の本音に従って本当によかった。

自分の行く道って、生まれつきたぶんある程度決まっているけど、見つけるのは難しい。これから何年生きるのかわからないけど、今書いてることを全否定するような考え方になることだってありうる。そのとき、そのときに、まじめに自然にいられればそれでもいいや。・・・そんなことを考えたりするのでした。

 

ジーン・シャープ「独裁体制から民主主義へ」1020冊目

「100分de名著」で取り上げたのを見て読んでみました。これって原作がパブリック・ドメインなんですね。著者ジーン・シャープは2018年まで生きたので、当然のように著作権が消滅したわけではなくて、本人が財産権を放棄したわけだ。テーマが非暴力革命で、お金や道具のない人にこそ読んでほしいものだと思うと、納得できます。

私は長年、決して暴力にも権力にも屈しないと思ってやってきたけど、自分のことでは泣き寝入りのしっぱなしで、自分のことだからとはいえ黙り込むのは権力に屈することだとこの本にガツンと言われてしまいました。でもサボタージュ、逃亡も立派な抵抗手段だ。定年を待たずに世捨て人になって以来、徹底して弱い立場の人たちの側にいる私みたいな”逃亡者”が増えてきたら、何か少しは変わるかもしれない。

巻末に載っている「非暴力行動198の方法」には例えば「シンボルを身に着ける」「歌を歌う」「巡礼する」「墓参りする」「背中を向ける」「辞職によるストライキをする」といった、行動を起こすことが苦手な人にもできそうなものも多い。私が元気に動ける時間はあとどれくらいあるんだろう?その間に、何かできることがあるかな・・・。

 

市川沙央「ハンチバック」1019冊目

あーー面白かったーー!

電車の中でカバーもつけずに読んでいたら、B級かC級くらいの感じのエロ小説が始まったので困ってしまった。いろいろ戸惑う部分もたくさんあったけど、まずはあまりの面白さにあっという間に読み終えてしまったことを書いておきたいです。

NHK障碍者バラエティ「バリバラ」のことが具体的にこの本のなかでも触れられているけど、まさにあの番組的な面白さ。ただしあの番組には、心優しいMCがいるけど、ここは無法地帯。この本を読むのは、バリバラを一度も見たことのない大人や子どもには早すぎます。番組内で触れたのはせいぜい男性の性の話題で、女性についてここまで掘り下げたことはないんじゃないかな?

露悪的というか偽悪的な感じもありますね。わざと激しく下品な場面を描く。それでも表現のしかたは下品ではないです。目的は劣情じゃないから。ピンク映画から始まって日本の巨匠となる映画監督みたいに(いるかどうか知らないけど)、より普遍的なものをこれから書いていける書き手だと思います。体の痛みに耐えてもっと書けなんて残酷なことは言うべきじゃないけど、私は読みたい。

紙の本にこだわるのは「マチズモ」だという箇所は、読んでてちょっとスカッとしました。自分の感覚としてはマチズモというと自分の考えを押し付ける感じだけど、むしろ選択肢が多い者のおごり、のほうが近い気がするかな。私は紙の本の体裁や表紙が好きだし、大好きな本を所有する喜びもわかるけど、荷物が増えるのがすごく嫌だし、古い本は劣化が激しくクシャミが出るものもある。本はできるだけ図書館で借りるしCDも買わなくなった。映画も、映画館で見なければ映画じゃない、と言う人がけっこういるようで、紙の本に近いものがあります。腰が悪いし若干閉所恐怖症で、動けず座っているのが辛い私には、家で好きな体勢で見られるVODやDVDがありがたいんですよ。そもそも私が見たいような、ちょうど誰も見なくなった昔の流行作品なんて東京のどこを探しても上映してない。以前はDVDも見つからずVHSを借りたり図書館でレーザーディスクを見たことさえある。映画を映画館でしか見ない人は、基本、新しい作品にしか興味がないんだろうか?

脱線しました。ともかく、「してやられた」と感じるくらい、自分が作家になったらこういう衝撃のある作品が書きたいと思うくらい、面白かったです。

 

延江浩「J」1018冊目

この本の紹介をどこかで見たとき、すごく下世話で品のない本かなぁ、でも読んでみたい、と思った。読み終わった感想をいうと、思ったような下品さは全然ない本だった。この著者のことは全然知らないけど、もともとこういう純文学っぽい文章を書く人なんだろうか。それとも「J」に対する敬意で、いつもより品位のある文章を心がけたんだろうか?ファンの人から総バッシングを受けそうだけど、「J」自身の下世話な男性の話や同性に対するどろどろした妬みそねみに比べて、この本のほうがずっと上品だ。

瀬戸内寂聴の本はエッセイ本数冊、伝記数冊、性愛小説数冊を読んだ記憶があって、性愛小説以外は感動したものもあったけど、読み進みたくないと感じるものもあった。自分が聖人君子だというつもりは全然なくて、読み進みづらいのは自分の過去がよみがえってくるからかもしれないけど、ともかくこころよく読めないくらい、ぬるぬるした多数の触手にからめとられて嫌な気持ちになるような感覚があったんだよなぁ。。。

その触手に自分から身を投げてしまえば、その甘美さに夢中になってしまえるんだろうか?

この本は、「かの子繚乱」に似てる、というか、彼女自身が「かの子」だし、「母袋」は岡本一平のようだ。でも岸恵子の自伝的小説「わりなき恋」も、同じエピソードを別の作家が書いたんじゃないかと思うくらい似ている。

「かの子」にも「J」にもどこか少し反感をおぼえるのは、もしJと母袋のどちらになるかを選ぶとしたら、私はぜったいJだからかな。誰かに付き従う快感なんて一生共感できないと思う。自分の思い通りに人を振り回すことならできそうだけど、それが楽しいとも思えない気がするのは、憧れではなく、どこか身近なものとしてJやかの子を見てるからかもしれない。この先わたしはどんなババアになっていくんだろう・・・・。

朝倉秋成「六人の嘘つきな大学生」1017冊目

いや本当に、就職面接なんてやっても、人間のなにも見えやしないと思うよ。とくに内面は。外面のよさは、今後営業職をやらせる人ならある程度うまくやれるかどうかが面接でもわかると思うし、焼き魚をきれいに食べられるかどうかは、精密機械を扱うスタッフを採用するうえで重要なポイントです。ピンポイントで1項目をテストすることならできる。でも人物の”よしあし”なんて見られると思ったら大間違い。そもそも会社自身、自分たちが”いい会社かどうか”わかってないだろうし。

という以前に、この本全体を通じて、良い・悪いという判断基準が1本の偏ったものさしのようで、ものごとを判断するに際して「この場面ではAよりBがすぐれている」みたいな統計的、あるいは場面設定を行ったうえでの評価がない。誰かがすべての面においてすぐれているかどうかを、一場面で判断することなんて、人間でも神様でもそもそも不可能、っていうおおもとの認識がないのが怖いくらいだ。日本人は事実より感情に左右されると外国の新聞記者だか誰だかが言ったというのは、軸を決めずに判断しがちな傾向を言い換えたともいえるかもしれない。

はなからそう思って、就職はいままでずっと欠員補充の三次募集とか派遣からの社員登用とかでやってきた私のような人間は、面接官から見ればやる気もないし反応もにぶい「×」の候補者だったんだろうけど。

思うに、とてつもなく優秀な学生を、飛ぶ鳥も落とす勢いのITベンチャーが採用しても、あまりに突出しすぎて凡庸な上司と衝突してあっという間に辞めたかもしれない、というかその可能性がけっこう高いと思う。

語弊をおそれずにいうと、凡庸な社員や悪事をはたらく社員がいない中~大企業はない。就職が厳しくなると、その先にあるものが大きく見えるかもしれないけど、狭い門をくぐったところで、その先では、今自分たちがいるのと同じ人たちが何かやってるだけなのだ。口に出して言ってしまえば誰でも納得するようなこういう事実を、新卒の就職システムが見えなくしてるとしたら、大きな問題だし、私が学生にアドバイスをするとしたら、そんなもの避けて人気がないけどポテンシャルのある中小企業に入って自分で会社を大きくしろ、と言いたい。希望する有名企業に行きたければ、そこで出世してから中途で受けた方がいい。

ちなみに大学も、しばらく働いた後で社会人入試で入るほうがハードルが低いことがあるし、高専卒で入れる大学院もある。

自分自身の学歴職歴バイアスを棄てて、誰かが考えて広めた社会のシステムから降りなければ、そういうことも見えてこないのかも。「いい学校に行っていい企業に努めればお金も稼げて幸せになれる」というのも、「痩せてきれいになればいい男と結婚できてタワーマンションに住める」というようなマーケティングの成果なんだろうな。

この小説では、語り手が人間を諦めずに、誰もがミスを犯すけど性根のあたたかさを信じていることが救いですね。

ちなみに、そういうものに左右されずに自分の嗅覚だけで仕事を選んでやってきても、行きたいところに行ったり住みたいところに住むことはできる、ただ、「そういうもの」の中で暮らしている人とは話が合わなくなるので、友達は少なくなるよ、と経験から言わざるを得ないな。。。