高木啓成「弁護士で作曲家の高木啓成がやさしく教える 音楽・動画クリエイターの権利とルール」851冊目

これは仕事用。まさに今必要な本なんだけど、読み切れなかったので、買います。そもそも、一度読んでどうこうじゃなくて、こういう本は手元に置いて、わからない点が出てきたときに参照するものですね。

ちゃんと読んでからまた感想書き直します!

日本SF作家クラブ編「ポストコロナのSF」850冊目

コロナ禍という状況が浸透してきた2021年4月の発行。なんともタイムリーで素晴らしい企画です。これね、19人もの作家(比較的若手が多い)が30ページくらいの短編を競作していて、大変読みごたえがあります。感染症が蔓延したあとの未来を描いてみたり、今そこで起こっているような事件を書いてみたり。

・・・しかしこれも残念なことに時間切れです。待っている人がたくさんいるので、半ばですが返却。最近どうしてこう、本にも映画にも没頭できないんだろうなぁ。そんなに忙しかったっけ私?

 

チャールズ・ブコウスキー849冊目「町でいちばんの美女」

ブコウスキーはこれで3冊目。とても短い短編がたくさん収録されている本です。

冒頭の表題作は、美しすぎるゆえに全く幸せになれない女性の悲しくも美しい話で、やっぱりブコウスキーはなんだかんだ言って女性愛の人だなぁと思う。

「人魚との交尾」は映画「つめたく冷えた月」の原作で、初めて読んだはずなのに、映画じゃなくこの短編そのものをかつて読んだような既視感。何だろうこの感覚。・・・いたずらで死体置き場から死体を盗んだ二人の男が、死体が若くて美しい女性だと気づいて驚き、「交尾」をしてしまって恋に落ちたようになってしまう。その彼女を二人で今度は海に流しに行く・・・という間じゅう彼らはどこかロマンチックでセンチメンタルで、とても美しいお話なんですよね。ブコウスキー、見苦しさの中の美しさ。

(今回、なぜか忙しくて延長したのに半分くらいまでしか読めなかった。次回、最後まで読もうと思います!)

 

ヘレン・ケラー「奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝」848冊目

このタイトルが誤解を呼んだんだな。原題は「The Story of My Life」。「奇跡の人」はサリバン先生のことなのだ。(「ヘレン・ケラーはどう教育されたか」の感想にも書いた)まさに、2冊が対をなしている良著です。

と同時に、人はどうやって言語を習得するのか?という問いの答えが山ほど載ってる本でもある。最初に「指文字」でつづられるwaterやdollと実物を結び付けて理解するようになり、毎日毎日新しい単語を覚えていくけど、thinkやloveといった抽象的な言葉が意味するものを理解できるようになるまで、目が見えて耳が聞こえる子よりずっと長い時間がかかった、等。p46の文章を引用すると:

「聴覚が正常な子どもなら、耳に聞こえたことばを何度も何度も繰り返し、まねをすることでことばを覚えていく。つまり、家庭内で交わされる会話を聞くことによって脳が刺激され、話題を思いつき、自然に自分の考えを表現できるようになるのだ。ところが、この「自然な会話」の機会を、聴覚を失った子どもは手にすることができない。サリバン先生はこのことをよくわかっていたから、欠如している「会話の刺激」を与えようと努力してくれた。」

外国語が母語の人たちに日本語を教えるのも、これと同じか似ているんじゃないかと思う。

p50にはこうある:

「(サリバン先生は)退屈な細部のおさらいは軽くすませる。おととい教えたことを覚えているかどうか確かめようと、しつこく質問することもない。無味乾燥な専門事項は少しずつ教える。そしてどんな科目も生き生きと説明してくれたから、先生が教えてくれたことは記憶に残るのである。」

こういう教師になりたい、と思う。楽しければ忘れないのだ、言葉って。

と同時に、サリバン先生は自分の最善の部分をまっさらな彼女の中に展開した、と思う。お金の余裕もあっただろうし、サリバン先生っていう稀有な人が一生を一人の人に捧げたという特殊な幸運があったんだと思う。

文庫本の最後に、サリバン先生を舞台で何度も演じた大竹しのぶの寄せた文章が載っていて、その中に、彼女自身が盲学校を訪ねたときに、まだ言葉を知らない盲聾者の子どもたちに会ったことが書かれてる。彼らが”不幸”だとは一概に言えない、と大竹しのぶも書いているけど、それを踏まえてもヘレン・ケラーという人は人を引き付ける強力な魅力のある、幸せな人だったんだろうと思う。どうしても、そうはなれなかった人たちのことも気になっちゃうんだよね。自分に何かできるかも、と思ってがんばるのは、勘違いとありがた迷惑なんだろうと自戒しても、どうしても目をつぶることができなくて・・・。

いろいろな学びをくれた本でした。サリバン&ケラーの2冊は、語学教師になる人たちはみんな読むといいと思うなぁ。

 

岸俊彦・編「東京の生活史」847冊目

この人の本は何冊か読んでとても好きなんだけど、読むと、とてつもなく切ない気持ちになることがある。自分が見ないようにしている自分の暗さを思い出して、空騒ぎして自分で自分をなんとか楽しませようとしてる自分がむなしくなってくる。

この本でも、東京の人、ひとりずつに好きなように語ってもらっていて、その中の見栄っ張りや忘れたいことや思い出したいこと、人のやさしさや悪さをその場に自分もいるように”聞かせてもらう”のが、ときどき、いたたまれないような気持ちになる。

”いたたまれない”。それが生きるっていうことのリアルなのかもしれない。

この本を買う勇気がなくて、図書館で借りたら、2週間で5分の1くらいしか読めなかったので、また予約して、やっと続きを読み始めた。・・・そしたら、もう読まなくてもいいって思った。多分最初にこれを読もうと思ったとき、私には話し相手がいなかったんだと思う。今は、それほど生活が変わったわけでもないけど、直接いろんな人と話す機会を作ろうとしていて、少しずつ増えつつあるから、人の話をゆっくり聞きたい欲が満たされてるみたいだ。

だから途中だけど、返却します。そんな読み方もあっていい・・・ですよね?(ダメかな?)

 

村田喜代子「飛族」846冊目

<ストーリーや結末に触れています>

この人の本を読むのは久しぶり。好きな作家のひとりだけど、評価が確固としている分、いつでも入手できるので、つい後回しにしてしまう。

最近の小説には、老婆か初老の女性が多く登場する。この小説は老婆2人、初老1人。最初の頃の作品だと、主人公が異世界へ飛んで行ってそのまま終わるイメージがあったので、この作品では(タイトル通り)おばあちゃんたちが異世界へ飛んで行ってしまうんだろうかと思いながら読んでいたら、割と日常的な結末でしたね。異世界を経験したあとの、くったりとした日常、のような感じもありますが。今の私自身には、じわっとしみ込んでくるようで不思議な共感を覚えました。私もそうやってだんだん、小鳥みたいな小さい老婆になっていくんだろうな・・・。それもまた楽しみに思えてきました。

 

白洲正子「鶴川日記」845冊目

これもまた「一万円選書」から。白洲正子、お姿とお名前はよく知ってるけど、書かれたものを読むのは初めてです。

少し前にたまたま、鶴川に住む友人宅に伺うことがあって、車で「コメダ珈琲店」に連れて行ってもらったりもしたのですが、町田市の中心とはちょっと離れた、家族で落ち着いて住むところ、という印象の町でした。この本はタイムリーだなぁと思って読み始めたら、鶴川日記は最初の1/3だけで、あとは「都心の坂」と「心に残る人々」でした。どれも面白かった。

鶴川に関しては、第二次大戦末期に都心から移住して、茅葺屋根の古民家を再生する様子が記されていて、目の前で屋根が張られていくように生き生きとして面白いです。逆に、今の鶴川を思わせるものはあまりないんですね。当時の田畑が戦後一気に住宅地として開発されていって、当時を知る人から見れば多分あまり面影のない町になったんじゃないでしょうか。でも残っているのが、まさに白洲家そのものを展示している「武相荘」。併設のレストランも含めて、ぜひ近々訪ねてみたいです。

第二部は「東京の坂道」。都心の坂といえば、2022年の私は乃木坂は実在するけど、日向坂も吉本坂もないよなぁ、えっ欅坂(けやき坂)はいつ櫻坂(さくら坂)に改名したの、という連想をしてしまいましたが、この章では「赤坂」「三宅坂」「神楽坂」等々といったもっと基礎的な地名の由来をひもといています。都心はそもそも坂が多いんだけど、この章を読んでいると、「xx坂」と呼ばれていたものが今は「xx通り」と呼ばれるようになったところが多い。「日本テレビ通り」は日本テレビが建つ前は「善国寺坂」と呼ばれていたことはこの本に書かれているけど、それ以降も様々な名前が付けられてきたのだ。渋谷なら「道玄坂」は江戸時代に命名された説がある一方、「公園通り」はパルコにちなんだものだし「ファイヤー通り」は消防署。新しいものは「坂」でなく「通り」と呼ぶことになってるみたいです。

私は上京してからもう40年近いけど、長年武蔵野多摩地域で暮らしていて山手線の内側の地理にまるで弱い。それでも仕事でよく行ったビルなどを思い出しながら、改めて、都心の地理って入り組んでいて、小道も多いし上り下りも多かったなぁ、なんて思ったりしました。

最後の章で取り上げられている人々は芸術家や収集家たち。梅原龍三郎の作品はエネルギーが強すぎてやっぱり苦手だけど、熊谷守一や芹沢銈介の美術館には行ってみたいと思いました。当時ご存命で、同じく健在だった白洲正子が親しげに紹介していた彼らが、亡くなって遺品を寄贈した先が美術館になっているというのも、無常というのか、没してなお遺っているというべきか。今は訪ねて行けるけれど、やがて塵になっていくんだろうなと、この本を読んでいると感じるので、自分自身が健在なうちに早く行っておこうと思います。

「目利き」の才覚は、さまざまな分野でさまざまな度合い、さまざまな嗜好があるんだろう。ネイルのデザインやギャルファッション、アニメのキャラクターデザインなど、全ての新しいものにも良しあしがあるわけです。私にも好き嫌いがあったけど、なるべく節約しよう、とばかり思ってやってきたうちに、自分の嗜好を優先することを忘れてしまいました。今は時間だけはたっぷりあるから、自分の中から生まれてくる「好きなものと暮らす喜び」を、これからはもう少し追い求めてみたいものです。

この本からも教えられることがありました。ありがとう岩田社長。