村田喜代子・木下晋「存在を抱く」1046冊目

なかなか異色の対談書でした。村田喜代子佐藤正午と並んで、この30年以上愛読している「文章の達人」。達人となるためには推敲に推敲を重ねる必要がありますが、この本は「文字起こし」そのものか?と思われるほど、言いよどみ、一ダイアログのなかの矛盾などに満ちていて、なんだか初めてこの人にリアルに出会えたような気さえします。この振れ幅の大きさ、なんだか興味深くて、ちょっと嬉しくもあります。

対談相手は、表紙絵の作者である木下晋。この人もよく語る人ですね。無口な、植物みたいな人がこういう絵を描くんだろうかと思ったりしたけど、めちゃくちゃ人間臭い。絵に迫力や語りかけてくるものが多すぎて、言葉は必要ないのが普段の作品世界のように思うので、こちらも、描いている人が初めて生き生きと迫ってくるのが楽しい。

でまた、この二人の会話が、全然かみ合っていないような、ぴったりくるような、不思議なバランスです。二人とも語りたいことがたくさんあり、自分の表現で語りたい人だからか、同じ考えに見えることでも相手に「その通り」ということが少なく、言い換えたり否定したり。でもその実、けっこう近いところを交わったり並行しながら進んでいる人たちなんじゃないかな、という感じもありました。

この対談を本にするのはすごく難しかったんじゃないかと想像してしまうのですが、「司会」であり出版元の代表者でもある藤原良雄氏が、話題をあっちに振りこっちに引っ張りしながら、散逸を最小限に食いとどめていくのがまた面白い。

対談の二人の少なくともどちらかに深い興味がなければ、とりとめなく感じる人もいるかもしれません。ファンの方々には、逆に必読の一冊ではないかと思います。

 

クシシュトフ・キェシロフスキ&クシシュトフ・ピェシェヴィチ「デカローグ」1045冊目

とっくに絶版になっていて古本価格が4000円超になってる。図書館にはあって、予約数0人でした。みんなもっと図書館行けばいいのになぁ。

映画版は「殺人(5)」と「愛(6)」の劇場版しか見てませんが、新国立劇場の舞台を今1~4まで見たところ。のこり4本ともいえる中途半端なところですが、間が空いてしまって、次の舞台まで待てずに読んでみました。脚本をもとにノベライズしたものだと思いますが、映画でも舞台でも気づかなかったトリビアが散りばめられているような。舞台って一回こっきりだから、いろいろ見落としてるかもしれなくて、本と見比べながら何度も見たい気がしてきます。

7~10もいずれも人はろくでもない落とし穴に落ちては失敗し、後悔し、長年にわたってさいなまれ続けます。ぬか喜びしたり、愛を確かめ合ったり。…とここまでは他にも同様の映画はたくさんあるんだけど、この映画の「神の視点」はなにかすごく温かくて、本を読み終わってもやっぱり、安易な救いはないのに包み込まれるような気持ちになって、人間って嫌いじゃないなと思える。希望、なんだろうか、この人たちにあるのは。同じポーランド出身の映画監督でも、ポランスキーアンジェイ・ワイダの作品とも違う。

映画をたくさん見るようになったばかりの頃は、テレビで放送されるものぜんぶ録画したり、名画座で1日に2本ずつ見たり、どんどん数を積み重ねていったけど、年をとってくると、この先何本ゆっくり映画を見られる時間があるかな?とも考える。好きな映画を何度も何度も見る幸せが、この監督の作品でなら得られる気がします。

 

松浦寿輝「花腐し」1044冊目

<小説と映画のネタバレがあります>

映画が印象的だったので原作も読んでみたくなりました。小説と映画はかなり違うらしいという認識で。読んでみたら、意外なところが同じで、意外なところが違ってた。

意外に同じところ:アパートの中の様子。アパートの女の子がクタニにからんでくる。クタニが最後にアパートを出ようとしたときの描写。

意外に違ってたところ:ショウコの描写が極めて少ない。イセキはショウコと何の関係もない。アパートの女の子たちと大家の国籍。飲み屋のイセキへの対応の良さ。ショウコの最後。

予想通り違ってたところ:からんでくる女の子が二人。クタニとショウコがピンク映画業界。

味わいは映画と小説とでかなり違うけど、どちらも完成度高いと感じました。映画には小説にない、人間のおろかさに対する慈しみが強くある一方、小説のヨゴレた世界も美しくさえ見えてきます。そしてどちらも、人間世界の底の底でうごめく人々への理解や共感が深くて、違う部分が多いのになんか確実に通じ合ってるものがあるのが不思議なのでした。

 

パトリシア・ハイスミス「11の物語」1043冊目

映画の影響って大きいなぁ。私もこうやってこの本を読んでみたわけだし(幸田文も読んだ)、絶版になっていた本が再発売されてAmazonの「ベストセラー」になってるなんて。

「PERFECT DAYS」にちりばめられたアイテムのテイストはちぐはぐで、

石川さゆり vs ルー・リード

幸田文 vs パトリシア・ハイスミス

これは、

小津安二郎 vs ヴィム・ヴェンダース

でもあるように思います。不思議と、映画だけは、小津監督とヴェンダース監督の作品を両方好きな人は多そうなのに、石川さゆりルー・リードを両方聴きそうな音楽愛好家や、幸田文パトリシア・ハイスミスを両方普段から読みそうな読書家の層が思い浮かばない。いるとしたら評論家レベルの、幅の広い愛好家だろうか。

つまり、パトリシア・ハイスミスは「幸田文好きの人はまず読まなさそうな本」だと思いました。

むかし大学の「現代アメリカ小説」の授業でこの人の短編を読んだことがある気がします。(うろ覚え)ちょっとおどろおどろしい、ゴシックホラーテイストの作品がいくつかあったっけ。この短篇集もそんなテイストで、ホラー映画百花繚乱の2020年代に生きる私たちから見ると懐かしいような感じもあります。11の短編のひとつひとつが、その後大きく膨らまされて、それぞれがホラー映画としてすでにブームを起こし終えているような。演出をすべて削ぎ落した骨子だけの映画を読むイメージ。

そういう全部を愛好する、枯れた雰囲気の初老の男、というのはやっぱり、日本でもドイツでも、毎日の仕事に追われて刺激に疲れた一般大衆が憧れる偶像であって、実在する人物ではないなぁ、と思っています。・・・あるいは、平山はじつはつい最近、2年くらい前までたとえば広告代理店の専務で、第一線を急に退いて、枯れた生活を実験的に、コスプレみたいな感覚で楽しんでいる、と考えれば実在できるんだろうか。うーんやっぱり難しいなぁ。

 

佐藤正午「月の満ち欠け」1042冊目

<すみません、小説でなく映画のほうの結末にまでふれています。これから見る方はお読みにならないよう>

最新作「冬に子どもが生まれる」を読んだら、これを再読したくなりました。

最初に読んだときは、なんかすごくロマンチックに感じられて少しびっくりしたけど、今度は最初から”正午節”というか、昔から感じていたこの著者らしさ(と私が勝手に思っている)がいっぱいだ、と思いながら読みました。ヒロインに元々家出癖があるし、悪いめぐりあわせがたくさんあるし。映画のほうはめちゃくちゃお涙ちょうだいな演出で、ふたりの再会が最後になるまで実現しない構成だったけど、こちらは既に実現した再会の場面を回想する章を最後に持ってきています。著者あるいは神の視点の誰かが、ものすごく熱い涙を抑えて抑えて、最後まで泣かずに見守りに徹しようとしているような。

これまでは津田にしろ誰にしろ、人妻と寝る男はみんなどこか気だるくて、そもそも自己肯定できず若干自堕落な感じだったけど、三角はとても真面目で立派な会社員。その一方、夫であった正木は妻を亡くしてからは道を見失ったまま堕ちていく。今までの主人公には正木のような側面もあった、とか言うと、三角に肩入れして正木を悪漢視して読んでいる読者に殴られてしまうかしら。

この正木も哀れな男なんですよね。ちょっと俺様で機微のわからない男だけど、彼なりに妻を深く愛している。「アンナ・カレーニナ」のように妻を失ってしまうと、原因となった男を憎むことも、この状況では理解できないことではない。だけど彼には共感ポイントがひとつも与えらえない。彼の最後は語られないので、何を短く書き残したかもわからない。映画で演じた田中圭は好感度の高い役柄も多く演じている人で、小説での大男の正木よりは観客に近いかもしれないけど、やっぱり反発を感じた記憶があります。哀れ正木。

深い深い悲しみと愛情。最初から最後までこの小説にはしずかにそんな感情が流れ続けていて、やっぱり今までの作品の、愛や誠実さをあきらめて半笑いしているような雰囲気とは違います。何が変えたんだろう。著者の死後まで待ってもいいから、その心境の変化をめぐる要因を知ることができたらなぁ。(私も長生きしなきゃだけど)こういう興味って下世話なのかな、著者は作品だけを見てほしいんだろうな、きっと。

 

都築響一 編「Neverland Diner - 二度と行けないあの店で -」1041冊目

魅惑のタイトルですよね。おとぎ話の中のレストランだとしたら、ハリポタ施設の不思議な色のデザートとかありそうだし、大人向けだとしたら、村上春樹の小説の中に出てくる、あっちの世界の居心地のいいバーとかありそうだし。

でもこれはいろんな人たちが「自分の幻のレストラン」を語るエッセイを集めたもの。いろんな、本当にいろんな人がいて、何やらバブルの香りの濃い、当時の流行の語り口で自分の個人的な経験(失恋が多い)を語っていて、見ているだけでお腹いっぱいになってしまうものも多くあります、料理よりむしろ個人のエピソードで。個人的には、店そのものの、店主店員や、料理の味や特徴(おいしくても特に特徴がなくても)、雰囲気や客層、場所などにどっぷり浸りたいので、エピソードはもしかしたらほとんどなくてもよかったのかもしれない。

特に印象に残ったのは、小宮山雄飛のリスペクトあふれる文章と、ヴィヴィアン佐藤の愛に満ち溢れた文章。なんらかの文章書きやエンタメビジネスに関わっている人がライターには多いようだけど、この二人は特に人前に出て見られることに慣れていて、失礼のない文章を書くことに心を砕いている感じもありました。

で、読まされるほうは迷惑だとわかってますが、ここは自分のブログなので自分のネバーランド・ダイナーを思い出して書かせてください。

若い頃は外食の習慣というかお金がなかったので、よく行くレストランの思い出が全然ないのですが、最初に思い出したのが故郷の繁華街にあった「梵天」という名のカウンターだけの喫茶店だな。中学生のとき、ミニコミ誌に鍋で淹れるコーヒーと紹介されていたのを見て背伸びして行って、そこでグアテマラが好きになったという、コーヒー好きの私の原点です。その後気になって何度か探してみたけど見つけられず、多分一回しか行っていません。

次に思い出したのは高校の学食。あそこは美味しかった。ラーメン180円も美味しかったけど、炊き込みご飯を炒めたような「おふくろの味」という皿盛りのご飯180円が最高でした。すぐ売り切れるので、学校指定のスリッパ(トイレによくあったやつと同じ)をペタンペタンと鳴らしながら、食券の販売が始まる10:30を目がけて、休み時間に廊下を走ったものです。卒業してからも何度か食べましたね、休み時間にしか出られない現役高校生を尻目に、オープンと同時に学食に行って。あの学食が廃止されたと何年か前に聞いたので、あれもまたネバーランド・ダイナーといえるかもしれません。

私のエピソードはそれくらいです。この本で取り上げられていた中では、吉祥寺のシャポー・ルージュと荻窪の丸福には私もよく好きで行きました。丸福は店の人が怖いので、いつもおずおずと入って、ひたすら黙って食べてましたが、あまりのおいしさに毎回スープまで完食して「は~っ!」って満足な溜息をつくと、怖いおばちゃんがいつもそのときだけ微笑んでくれたような記憶があります・・・記憶違いかもしれないけど。

佐藤正午「冬に子供が生まれる」1040冊目

Web媒体に連載中、夢中になって次回を待ちながら読んだのですが、まとまった感想を書くのは難しく、単行本を待って再読しました。

「月の満ち欠け」でとうとう直木賞をとったわけですが、今まで愛読してきた佐藤正午となんとなく”手触り”?が違うようでちょっと戸惑いました。そして続くこの本。こちらも、超現実的なものが全体を覆っていて、少し戸惑いはしたんだけど、読んでいる私の気持ちはたとえば「身の上話」や「鳩の撃退法」を読んでいたときの気持ちに近い、トイレに行く間も惜しんで次へ、次へ、と急ぐ、あの感じがありました。

改めて思い返してみると、昔から彼の作品には、すごく隠れた形で超常的なものが流れていたのかもしれない。そういうものが目立つ形で現れるのはたとえば村上春樹で、この人の作品の中で人間関係はとても狭く閉じているので、不思議なことについて公衆から責められたり噂されたりする場面は少ない印象です。でも佐藤正午作品は、すごく普通の地方社会で繰り広げられるので、ちょっと外れたことをしている主人公まわりの人たちは、大衆からのやんわりとした攻撃にいつもさらされています。その軋轢は常に主人公まわりの人々を傷つけています。

この作品「冬に子供が生まれる」では、その「主人公たちが巻き込まれる不思議なこと」が即実的な犯罪ではなく超常的な何かだったら、当事者たちは何を考えどう行動するのか?というように、テーマを少し斜めにしただけのいつもの佐藤正午作品なんだ、というふうに感じています。

そのおかげで、この作品は「月の満ち欠け」と今までの他の作品とをつないでくれて、やっと佐藤正午の作品の流れというか、広がりが納得できたように思います。佐藤正午が、丁寧に丁寧に、超常現象の当事者となってしまった子どもたちや周囲の大人たちの数十年間を描くとどうなるか。(一人の読者がどれほど納得しようがどうしようが、わりとどうでもいいことかもしれないけど)

読み終わって、なにか深いしずかな感動があります。人間が生きて死ぬこと、愛したり失くしたりすることの美しさと悲しさに、思いを馳せてしまうんですよね。こういう感覚は昔の作品にはなかった。もっと遠くへ、もっと遠くへ、と、目に見えないどこかに何かを求めていく感じが強かったです。

・・・これは、もう一度「月の満ち欠け」を読み直してみなければ。そしてまた感想を書きます!