瀬戸内寂聴「ひとりでも生きられる」77

このタイトルの本を中年の独身女が日曜日に一人で読んでるってのは、傍目にはかなりイタイが、まぁそんなもんだろう。(達観)

寂聴さんの「晴美」時代の煩悩燃え盛る本を読んでみたいと思って、軽く読めそうなのを買ったわけなんだけど、この人の愛と本能のままの人生は、ほんとにすごいですね。読めば読むほど、「ひとりで生きる」ことがとても寂しく見えてきます。本人は元気あふれてポジティブで、自分を肯定することを仕事のようにこなしつつ、次々に男を栄養にしては明るく捨てていってしまうんだけど。

愛する男が妻の待つ家に帰っていくのが平気な女なんて、いるわけないよ~。精神のどこかにフタをしてるんだと思う。それとも、それほど本当に好きではないのか。

愛する、と恋する、と需める(もとめる)を違う言葉で言い分けている意味は、なんとなくわかるけど、きっちりその間の線を引くのはやっぱり難しいはず。

自分と似ている、あるいは同じ部分もあるけど、相容れないところも多い。ただわかるのは、子を殺して食う悪魔が祀られると鬼子母神になるし、煩悩のかぎりをつくした女が出家すると菩薩になるのだ。欲望を我慢していては、たぶん次の段階には上れないんだと思う。覆い隠して欲望なんてありませんって顔をしても、見る人が見ればわかる。

一番の違いはたぶん、私はいまだに暖かい家庭というものにあこがれ続けてるってところかな。晴美は若いころから、永遠の愛なんてないし永遠に平和な家庭があるとしたら鈍感なだけだ、と言い切る。暖かい家庭というのは、たとえば、雪の日にカーテンの開いた窓の中に、クリスマスツリーと着飾った子供たちとサンタの格好をしたパパとエプロン姿で七面鳥を焼いているママがジングルベルを歌っている、というようなイメージだ。こう書くだけで、実在しない感ありありなんだけど、あこがれるんだよなぁ。中年男のすべてが、おろしたてのセーラー服に白い靴下、長い髪をきちんとまとめた永遠の少女にあこがれつづける、っていうのと同じようなもので。(そうなのか?)

大名作「かの子繚乱」も買ってきました。序章だけ読んだけど、これもものすごい人ですね。人間ってすごいなぁ、おもしろいなぁ。仕事や人生に倦んできたら、古典的名作を読むといい。おおむかしから人は大胆不敵でおろかで美しい、ということが実感できる。むしろ今の人のほうが臆病で小粒かも。晴美・寂聴がとりあげるような女って、いまはエリザベス・テーラー松田聖子くらいしか思いつかないもんな・・・。

私もずいぶん保守的で型の中だけで生きる女になった気がする(自分の中で相対的に)。このままじゃ終わらない気はしてるけどね・・・。