アラン・ケイ 140

真打ち登場!って感じですかね。

1992年発行だけど、アラン・ケイの昔の論文(1977-1983)を集めて資料を追加したものなので、一番古いものからもう30年たっています。しかし陳腐化した印象はありません。パーソナルコンピュータ業界で飯を食っている人は一度は読むべきでしょう。

真理ってのは普遍的で、歴史的なものにこそ今後の進むべき方向が潜んでる・・・ということは、森先生から「テクノヘゲモニー」を通じて習ったことで、そろそろ古典としてのアラン・ケイを読みなおす時期なのかもしれません。いまどういう新製品を開発すればいい?迷ったら、再び開く本のひとつ、です。

とはいえ、前半の論文は『金言集』なんだけど、Xerox PARCを卒業した後は、さまざまな研究所を転々としつつ、これといった目に見える成果を出せないまま、だんだんと第一線からフェイドアウトしていきます。ムーアの法則を実現させた業界をもってしても間に合わないほど未来的な構想と、天文学的な開発費用のせいなのでしょうか。むしろ、ケイ自身、ユーザーが本当に欲しいものを超えて、作りたいものを作る人になってしまった、ということはないんだろうか。

でもね、この人の言う「子供がプログラミングできるPC」にはまだ未来が見える。楽しくなければだめだ、というのも真理。ちょっとこの方向でいろいろと考え事をしてみようと思います。

というわけで『金言集』。今回も長いよ:

p57あたり。東芝の「ダイナブック」とアラン・ケイのダイナブックは似てなくて非なるものだ、と誰かが吐き捨てるのを昔聞いたことがあったけど、その意味がわかりました。彼のダイナブックは何でもできるすごいおもちゃなのだが、「潜在的ユーザーは極めて幅広く、特定の要求を意識してダイナブックを設計したら、機能だけは豊富だが、結局はだれの要求も満たすことのない、ただのよせ集めのガラクタになってしまうだろう。」というところが、どこか冷静。

プログラミングに関して、まず

p66「したがって、パーソナル・コンピュータの最大の障壁は、たんなる「束の間の救い」というレベルを超えて、専門家ではないユーザーでさえも、たぶんまちがいなく、なんらかのプログラミングをしなければならないことである。」という。これは私の感覚と近い。与えられたものをそのまま使っても、本当に自分が欲しいものは作れない。だけど専門家でなければものが作れないような機械は、本当に便利な道具じゃないから、一般ユーザーがカスタマイズしたくなるようなマシンが私は欲しい。一般ユーザーのジャンルに収まってハッピーなユーザーがそういう意識を自発的に持つことはない気もするけど。

p76なるほどと思ったお言葉。「・・・数学の記法というのは、まわりくどい自然言語ではうまく表現できない概念を、簡略に表現するために生みだされたものだ。数式は、それが表わす意味を理解し、操作するのに大いに役立つことが、しだいに理解されるようになっていった。たとえば、関数や平均変化率や極限のような、われわれの文化の言語的伝統に収まりようのない概念を表現できる、新しい記法の誕生は、さらに大きな進歩をもたらした。」あったまいい人はこんなことまで考えるんだぁ。

p89(コンピュータ・リタラシーのもたらす変化について述べた箇所で)「・・・パーソナル・コンピュータには教育革命を起こす潜在能力があるというだけの理由で、実際にそうなると予測したり、期待したりするべきではない。」

p90「よくある誤解のひとつに、コンピュータは「論理的」だというものがある。「率直」というほうがまだ近いだろう。コンピュータには任意の記述を収められるので、首尾一貫しているか否かということにはおかまいなしに、表現可能なものならどんなものでも、一連のルールを実行することができる。しかも、コンピュータでのシンボルの利用は、ちょうど言語や数学でのシンボルと同じように、現実世界から切り離されているので、とてつもないナンセンスを生みだすことができる。」

以下「コンピュータ・ソフトウェア」の章。

p101 「たかだか単純なワードプロセッサーの起動にすら必要な「見えないプログラム」をはじめとする抽象的な媒介手段に訴えなくても、自分の幻像を操作できるなら、ユーザーはたいへんな梃子(てこ)を利用できることになる。・・・(中略)・・・このきわめて演劇的な状況に対して、プログラマーがどれだけの管理能力を発揮できるかが、幻像をつくりだし、目に見える「親しみやすさ」を改善できるかどうかの鍵になる。」UIのことですね。

p102 警告「なかには、プライヴェートな宇宙の創造の陶然たる雰囲気に、あまりにも深くひたりすぎたプログラマーもいる。彼らは、傑出したソフトウェア・デザイナーのロバート・S・バートンが名づけた、「低俗なる宗教の高尚なる司祭」になってしまったのである。」

p104(コンピュータの世界にはガリレオニュートンに匹敵する偉人はまだ出ていない、という文章のあとに)「まず必要なのは、「存在は不必要に増殖させてはならない」といった、オッカムだろう。複雑なものをとりのぞき、単純化することに大きな努力を傾注するのは無駄なことではない、という考え方は、とりわけ、成長する分野

には不可欠な、新しい美意識の創造という観点から見れば、現代の科学や数学の発展と、非常に密接なつながりがあったといえる。この「オッカムの刃」にならった美意識こそが、現在のソフトウェアを評価し、将来のソフトウェア・デザインを刺激するのに必要なものと思われる。」一言で言うと「無駄は敵」。某社の巨大ソフトウェアの欠点を正確に無駄なく指摘した言葉のような気がします。あれ、なんで耳が痛むんだろう?ずきずき・・・。この観点でみると、Googleのサーチページはまったく無駄なく単純だ。

外側だけ見ればパンクバンドとオーケストラの違いのようだけど、たぶん問題は音数じゃなくて、無駄な音があるかどうかなんだな。

p106「オブジェクト指向デザインへの移行は、真の視点の変化ーパラダイムの転換を意味し、表現能力の大いなる増大をもたらす。これと同じ変化が、分子連鎖が生命の誕生以前の海に、あてどもなく漂っていたときにも起こった。」①ずいぶん大きく出たな!と思う一方、②わかりやすい比ゆだ。ことオブジェクト指向とかの話になると、複雑怪奇な用語を並べた古語のように難しい本をありがたがって読んでる奴がいたりするが、ときどき、私が一生懸命読んでもわからんような本は書いたやつの方が悪いんじゃないか、と思うこともある。

同ページ「スプレッドシートは、せいぜいよくいって、1970年代に確立されたもの(オブジェクト、ウィンドウ、WYSIWYGエディター、目標探索型の検索)を組み合わせて、「よりよい古いもの」にまとめあげたにすぎないが、これは今後数年間のデザインの主流となり、「ほとんど新しいもの」のひとつになると思われる。」 回りくどいな?でもスプレッドシートのことは、かなりいろんなことに使えて全般的にはプラス評価してるようです。

p109「いかなるシステムにもあてはまる、もっとも強力なテストとは、その機能が予想される必要性にどの程度うまく適合しているかを調べるのではなく、設計者が予想していなかったことをしようとした場合に、どの程度うまく機能するかを調べることだ。これは、蓋然性の問題ではなく、「ユーザーは、なすべきことを理解し、迷わずそれを実行することができるだろうか?」という、”見通し”の問題である。」

リスクマネジメントの話というよりUI設計の話だけど、簡潔に言い表してますね。

p112 「ユーザーは、自分の目的に合わせて、システムを調整(まめたろう注:ここではプログラミングの意)できなくてはいけない。それができないものは、他人が書いた文章を使ってエッセイをつくれ、などと要求するようなもので、まったくばかげている。」これが彼の一貫した考え方です。オプション変更とかマクロもプログラミングと呼ぶんだろうか。

p114 「コンピュータは、「実行するようにプログラムされたこと以外は実行できない」が、それをいうなら、胎児になろうとしている授精卵にしても同じことだろう。」だからコンピュータは「道具」ではなく進化するシステムだ、という。たぶん道具っていう言葉の意味が日本ではもうちょっと融通がきいて便利なイメージだと思うけど。

p115 「・・・エクスパート・システム(まめ注:ここでは人工知能)のうち、三種はきわめて低い実現性しかない。第一のものは、人間の成人の精神を組み立てられるというもの。第二は、人間の子供の精神を組み立て、それを大人のものに変換できる環境で「育てる」のは可能だ、というもの。第三は、学習によって真の能力を獲得可能な、なんらかの精神を組み立てる基礎となる枠組みの種子が、現在の人工知能技術のなかにある、とする考え方である。」課題でGoogleについて書いたときに私も考えた。ここであげた3つは、人間型ロボットの夢と同じように、脳みその形をした人工知能を夢見たちょっと稚拙なアイデアで、Googleのひとたちは『人工知能はアトムじゃなくてHALの形をしてる。人工知能はとにかくたくさんの人間による選択を集めて多数決のパイを際限なく広げることで実現できる』って気づいたところが賢い。

p116 このあたりから、巨大なデータベース+エイジェント(司書)の話が出てくる。エイジェントは最近は目利きと呼ばれてる。鍵は前後関係(コンテクスト)にある、とか。彼は検索の便益に預かる前の世代の人だけど、この視点はとっても正しい・・・というか、業界の後輩たちはケイの論文をヒントにして、その後のシステムを作っていったんだろうか。メモリメーカーたちが苦労してムーアのロードマップを忠実になぞっていったように。

p127 最後に彼は教育について論じています。「推測というのは、われわれの教育システムにとりもどすべきもののひとつで、それができなければ、真の意味で人を教育しているのだとはいえません。人生のシンボル段階にある(まめ注:高次というような意味)人間をあつかうことが教育だというのなら、われわれは知識のなかでも、もっとも無味乾燥で退屈きわまりない部分、たとえば”事実”という部分を相手にしているにすぎない、ということになります。」

p128 「科学者にとっても、そしてとりわけ資金の提供者にとっても、もっともむずかしいのは、よいアイディアが生まれたときに、それを認識することのほうです。これこそが、ゼロックスパロアルト研究所で起こったことなのです。」

p132「人間は、"夢想(ファンタサイズ)"したい、”コミュニケート"したい、というふたつの欲求をもっている。」ここでファンタシーというのはわりあい俗っぽい支配欲のようなもので、ゲーム、スポーツなどの楽しみのことのようです。劇場に芝居を観にいくより、劣悪な画像の映画の方が持ち運べるからそっちがはやる。テレビ、ビデオゲームは映画よりもっと自分だけのファンタシーを制御できる度合が高いから、だんだんそっちが市場を制するようになる。

p141「・・・エンジニアといわゆるアーティストとのあいだに横たわる溝、わたしはこれをハード馬鹿とソフト馬鹿の分裂と呼んでいますが、この溝は現在の教育で、もっともやっかいな問題のひとつでしょう。」ここは単純に笑いましょう。ただし今の日本ではエンジニアとアーティスト(音楽・美術系)は同じ右脳系と見られていて、エンジニアが敵視するのは彼らが文系とひとくくりにするMBAのことです、と教えてあげたい。

p188 後半は監修者によるアラン・ケイ評伝です。そこで筆者は「しかしケイは、エンゲルバートが開発したインターフェイス技術を取り込んだのであって、エンゲルバートがNLS(まめ注:oNLine Systemという彼が発明したネットワーク)に込めていた集団の知的活動の道具を作り出すというビジョンは、宙に浮いてしまった。」この本では隋所でケイの限界についても書かれています。預言者が豊かになるとは限らない。ケイは壮大なビジョンを語ったけど、自分よりすごいエンジニアに恵まれない限り、実現には近づけない。なぜなら、彼が言った通りのものを作ってもそれでは足りなくて、作るそばから新しいアイデアを作り足していくくらいの人じゃないと、出来上がらないから、じゃないかなぁ。

p192 ケイのパーソナル・コンピュータのアイデアは、「ウルトラモバイルPC」とか「ネットブック」とか最近の300ドルPC(日本人は500ドルPCと言う、ってバルマーが笑ってた)のイメージ。ケイの場合タブレット必須なんだけど、なぜAppleTablet PCを出さないんだろう?(iPhoneiPod touchは除く)

p199あたりで、なぜXerox PARCがダイナブックを実用化できなかったかについて、さまざまな要因がありうると書いています。「藪の中」じゃないけど、事実は人によってさまざまな様相を呈するので、結論を絞らないまま複数の人の考えを書くのはよいと思います。

以上。