朝倉かすみ「平場の月」860冊目

ふしぎな味わいの本だと思った。

舞台は埼玉の中くらいの大きさの町、登場人物は印刷会社の男と病院の売店でパート勤務している女。お金がないから、と言って、女の家で家飲みをする。外食するときも駅前の焼き鳥屋。なんだか侘しい。読んでる自分と似たような生活だけど、ノンフィクションとかじゃなくて小説として読むには、夢がなさすぎる。バラ色の結末を期待できない。

でも、これは侘しさを想起させるための小説じゃなくて、むしろ、本格的恋愛小説で、よくよく考えるとまるで実現しないようなファンタジーにも思えてくる。そこでやっぱりまだふしぎなのは、徹頭徹尾、感情を排してるところなんだな。詠む者が号泣して優しくなれるタイプの小説なのに、登場人物は泣かないどころか、悲しかったり切なかったりする素振りもあまり見せない。忍耐の美学、統制下にある感情は漏れ出してもこない。読みたい行間からぼろぼろこぼれ落ちてこない。だけどこれは典型的な「泣くための小説」だとも感じる。

冒頭で死をネタバレされる女性「須藤」と、元同級生の男「青砥」の恋愛は一見しみじみとしながらも、学生時代じつはそれぞれ片思いしていたり、須藤が何が何でも孤高に生き抜こうとする一方で青砥は”母親のようにやさしく”、彼女に去られても思い続ける というロマンチックな純愛物語なのだ。愛されたいけど媚びたくないと思いながら一人でいる女性が、青砥のような男性に追いかけられながら振り切っていけたら最高に幸せだけど、青砥のほうは置いてけぼりのままだ。これは、須藤のように生きて青砥のような男に愛されたい女性のためのファンタジーだったのかな、と読み終わってから思う。この結末を「恋愛の成就」と見る人もいるのかもしれないけど、すれ違い合っていて嚙み合うことを避けた”ねじれ”のように感じる。カタルシスを与えないという新しい選択肢の実験みたい。

日の名残り」と共通点もあるけど読後感が違う。”愛し合いたいけど、愛憎のドロドロに巻き込まれたくない”という意思が巨石みたいに立ちはだかっていて、愛が二の次になっている。映画化されるときは、青砥は小説よりよく泣く男として描かれるんじゃないかな、という気がする。

戦争で、半年暮らしただけの夫を失って、その後一生独身を通した女性の純愛や孤高の精神を、現代に再現するためにあえて愛されることを拒否した、みたいな感じ。

でも、誰かと愛し合う状況に陥って、動揺したあげくまた失敗すること自体を恐れて、誰にも近づかない人のほうがもっと不自然に禁欲的なのかもね。

それにしても、魅力的な人物像の造形や、どんどん先を読ませる筆力はすごいものでした。