ハーラン・レイン「善意の仮面:聴能主義とろう文化の闘い」1048冊目

けっこう怖い本でした。耳が聞こえない、というか、音のない人々は「障がい者」なのか、という根源的な前提がグラグラになります。彼らが”障がい者”でないのなら、他の”障がい者”のなかにも”障がい者”ではない人がいるのか。視界を持たない人、下肢を持たない人も、不自由ではあっても、継続的なケアを要する症状がなければ彼らと同じカテゴリーでもいいのかもしれない。でも、いわゆる「五体満足」(あるいはマジョリティ)と重要な部分で異なっていて、異なる部分に関して専用のケアや仕組みが必要となる人を総称する言葉はあってもいいと思う。それを”障がい”と呼ぶことが、健常者あるいはマジョリティの奢りなので、「デフォルト(従来の「健常者」)」に対して各種オプション「言語:英語、日本語、日本手話、アメリカ手話・・・」、「移動手段:自動車運転可能、公共交通機関のみ、車いす+対応車両」のように具体的に誰でも選べるようにすればいいのかも。そうすると、健常者だけをデフォルトと定義するだけで済む。

だいたい、知能も身体能力もピンキリで、手帳の有無だけで何でもわかるわけじゃない。手帳を持っている人を見下すのは最低だけど、持つことを悪用する人も嫌い。すべてのことは一律ではない、ということをよく認識したうえで、あるカテゴリ―に関してこの人のA能力はxxでB能力はXXだ、というふうにカスタマイズするためにだけ、能力の差異をはかるのがいいのかもしれない。

…などと、自分はこれからどういう立場をとるべきか真剣に考えあぐねてしまうような本でした。これを読んだきっかけは、日本語が第二言語(あるいはそれ以上)となる外国ルーツの子どもたちの教育に関するレクチャーを聞いたことで、ろう児と関連付けて第二言語ということを考える上で読んでみたのでした。何を障がいと定義づけるか?とは別次元の部分も多いけど、文化や教育という文脈で話す上では同様にそこにある問題なんだな。

それから、数年前に見た「サウンド・オブ・メタル」という映画のこともずっと思い出しています。ヘヴィメタルバンドのドラマーが突発的難聴になり、人工内耳の手術を受けるけれどそれを使うのを辞めて、長い間の逡巡ののちに手話を学んでろうコミュニティになじんでいく話。人工内耳を再現しようとした、”耳がひどくキーンとなっている状態”のような音がなんとも不快で(うまくできていて)、見た人ならその人工物に違和感を感じられたんじゃないだろうか。そんなこともあるのかーと思って見たんだけど、ろうの子どもにこの手術を強く勧められた聴者の親たちが、考え直すきっかけにきっと多少はなったんじゃないかと思います。

読書の感想ブログに自分の考えばかり書くのはあまりかっこよくないし、読んでくれた方には参考にもならず時間ばかりとらせてしまって申し訳ない気持ちになってしまうのですが、こんなに考えさせてくれるこの本は、歴史に残る重要な本だという気持ちはとても強いのです。