村上春樹「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」287冊目

海外旅行に行くフライトの中で読もうと思って、友達に借りました。行き帰りのフライトやひまなときにちょっとずつ読み進んでも、軽く数日で読めるボリュームでした。

内容は…いつものようなフィクションですが、“夢うつつの世界”みたいなの(パラレルワールド的なもの)が出てこなくて、今回はあくまでもこの世界の現実に起こった出来事だけが語られます。主人公「多崎つくる」は例によって地味で反応のうすい青年だけど、彼のカラフルな友人たちは彼のことを「ハンサムボーイ」とか「実は好きだった」とか、実はかなりポジティブに評価していました。

今回新鮮に感じたのは、主人公のなかにそういう「主観と客観のズレの明確な認識」があることや、企業=巨悪と決めつけずに、大人の世界でうまくやっている当時の友人たちをそれなりに認めていること。

ぶっちゃけてしまうと、小説のなかの主人公に、かつては皆無だった“社会性”が生まれていて、心の中の妄想の巨悪(卵をつぶすほうの何か)が実は妄想でしかなく、実際には小さい人間ひとりひとりの悪意や恐怖の集まったものでしかないとやっと気づいたようでもあり、長い中二病だったなぁおい、と作家の背中をたたいてやりたいような気持ちです。純文学ってのは作家の天才的な妄想力のたまものだと思うけど、その妄想の正体を見たらふつうだった…というような、少しさびしくつまらない気持ちが自分のなかに生まれました。考えてみれば、村上春樹の長編小説は全部読んでるけど、それはファンだからではなくて、読み終わったときの「つづく」感というか、結論がなく放置された感覚のせいで、次を読まずにいられなかったからでした。彼の偉大さは、その物足りなさを醸し出す力だったんじゃないか?となぜか過去形で考えてみたりします。

彼の小説は買っても一度しか読まないので(長いからか、「つづく」感のせいか)、細部をあんまり覚えていなくて、上記もうすい記憶による印象論でしかありません。さらに印象論をつづけると、もしかしたらこの変化は、今は物足りなく思えるけど長い目で見れば重要なことかもしれず、ここを一歩踏み越えることで、村上春樹は人々の不安を映すだけではなくポジティブな影響を与える作家になっていく可能性もあるのかもしれない…。これは勝手な妄想ですが。

ノーベル賞を授与するなら、1Q84くらいの大作の後がいいな、このタイミングではどうも物足りない…という気がするので、次の作品も楽しみにしています。