アガサ・クリスティー「春にして君を離れ」829冊目

<結末にふれています>

どこで見たんだっけ?と確認したら、最近注目してる阿津川辰海「蒼海館の殺人」で章のタイトルに使われてた名作の一つだった。クリスティが「メアリ・ウェストマコット」名義で発表してた作品で、殺人が起こるようなミステリーではないから見逃してたのかな。あと5冊あるのか。全部読まなきゃ!

さてこの本、さすがクリスティです。少女のころにかなり読んだけど、今になってまったくの新作(私にとって)が読めるこの幸せ。この洞察力、人に対する理解の深さ。彼女のミステリーを読んで、動機の部分で「?」と思ったことはありません。彼女のミステリーは人間の奥深い複雑な感情から起こる「殺意」をさぐることが主眼にあるから、怖いし哀しいし温かい。彼女のミステリーから「殺人」を取り除いたのがこの本でした。

この小説の主役は、映画「普通の人々」に出てくる、明るくて仕切りたがりだけど自分中心で人の気持ちがわからないお母さんみたいな女性。普通、クリスティのミステリーの中では殺される役だな・・・。こういう人、すごく多い。10人~20人に一人くらいはいる。周囲を巻き込むのがうまいので、孤立することは少ないけど、本当に誰かとつながることはできない。(こういう人たちが集まって、誰かと悪口を言い合うことで孤独をやわらげている場面を最近はよく見かける気がする。)

独善的な人にクレームを入れるのって本当に難しい。独善的だからわるい人とかつめたい人なんじゃなくて、優しい部分もあるから、傷めつけてダメージを負わせてしまうと、悲劇のヒーローやヒロインになってしまって、こんどは自傷行為に走ってしまうこともある。この小説のすごいところは、主人公が何日も予定外に砂漠に閉じ込められたことで初めて自分の内側に意識を向けて、自分がしてきたことで家族がどんな思いをしてきたかを認識してしまう、だけで終わらないところ。砂漠で気づいたことは、自宅に戻って一歩足を踏み入れたところで、メイドの「お帰りなさいませ」によって意識の奥へ後退する。やっぱりいつも通りの日常でいいんだ、という状態に戻ってしまう。

そして、夫と娘も、お母さんにバレなくて良かった、彼女が傷つかないようにこのままの日常を続けようね、と話して終わる。

すごい。深すぎる。それが人間、それが家族だ。思いやりのある人は声高に自己主張しない。大勢のやさしい人々が声高な人たちを支えてる。

もうすこし深読みすると、やさしい人たちが恐れてるのは、崩壊だ。彼らは危機に直面して戦えないから、平穏を保とうとする。戦って勝てないから、がまんを続けることのほうが良いと本能的にわかっている。

解説で栗本薫が、やさしい夫が独善的な妻をコントロールできなかった点を指摘していて説得力があります。

翻訳について触れると、中村妙子の翻訳がすばらしい。すごく、ひらがなが多い。上品な人と下品な人の言葉の使い分けがうまくて、どちらもやりすぎない。女性が女性を主人公にして書いた小説は、女性が翻訳するのが自然、というポイントも大きいけど、日常語彙の豊かさが違う。原作を深く読み込んで、解釈を加えすぎずに日本の読者に示して見せるさりげない技量に感服です。

私、はるか昔、大学で中村先生の「翻訳入門」の講義を受けたんですよ。かなりクリスティを読んでたから、がんばって受講したけど、私が課題でやった翻訳は箸にも棒にもかからなかったっけ・・・。(だから私は実務翻訳のほうへ行った)あの頃の自分がどれくらいクリスティの心情や中村先生の意図を理解できたか、かなり怪しい。今ならもう少しはわかるかな。どんなにありがたいものを受け取っても、自分自身が未熟なうちは”豚に真珠”。

メアリ・ウェストマコットのシリーズ、全部読んでみます。